*ランダムなキーワード*
「人魚」「女だった」「飲み屋でむしゃくしゃして」「山に登った」


序「海沿いの小島の洞窟」

 燻るような海の香りが、洞窟一杯に染み渡っている。人魚の子は、ぬらぬらとした黒髪を肩から腰まで、腰から水中まで漂わせながら、穴の淵に腕を組み、その上に尖った顎を置いて単調な歌を歌っていた。それは自然界の音の一部のような淡々とした調子の繰り返しだったが、人にとっては魅力的で、引き込まれ飲み込まれる歌だった。
人魚の子は時折歌うのをやめて喉を休め、顔を上げて暗い洞窟の先を見た。
洞窟の丸い入り口の先には、海があった。子どもでも渡れる浅く短い海だが、外敵を見るや否や嵐を起こし、必死で子を守る、母の海だった。
しかし、その海の向こうには街があった。離れ小島の洞窟に住む人魚の子には、丸い入り口の向こうから、いつもそれが見えた。明るくざわめく街。人の街。
「母さまが、決して近づいてはいけない、と言う生き物」が住む街。
暗い夜空が蓋をしている時間にも、きらきらと光を放つ、暖かそうな街。人魚の子はその方へ手を伸ばそうとするが、子は何せその洞窟の中の水穴から動けないのだった。
だからいつも切なげに、物欲しそうに人間の街を見ては、また退屈げに歌を歌う。そして飽きると、水の中にもぐり、海上の洞窟から海底の母の元へと帰るのだった。

海底には、紺色の水と黒い髪に紛れて人魚の母が居た。有象無象の海の生き物たちが人魚の子の周りをざわめきながら泳ぎ、その体を身震いさせ、光のない水の中であてもなくただぐるぐると泳ぎ続けている。
人魚の子が何も言わずとも、母はこの子が外界に触れたくて今日も海上まで遊びに行ってしまっていたことを悟った。母は外界の空気に触れて冷え切った子を大きな胸に抱きとめ、持てるだけの愛情を水に溶かして子を包む優しい膜を作った。人魚の子は心地よい音に埋もれながら、その膜の中で目を閉じ、明るさが目を潰す朝を眠って過ごした。
人魚の子はそうして、母に愛され海に育てられていた。深く暗い暖かさの中で、暮らしていた。


1.「飲み屋」

 数十年前は寂れた田舎町だった春実(はるさね)の街は今、夜も煌々と明るい光を放つ、商人たちの街になっている。街の外れにいけば、当時の古い家屋や寂れた炭鉱へ続く暗い道があり過去の姿を垣間見ることが出来るが、ごく一部の話でしかない。この街で生まれた子どもや、最近この街へ移住してきた金持ちの連中は、春実の街を見て、ごく新しい商業と港の土地だと考えるだろう。
昼は異国の船が出入りして数々の荷物を運び、夜は怪しげな店がどこからともなく姿を現し、妙に厭らしくまた芳しい香りの漂う一品料理を振舞い始める。宿屋には貿易商が出入りし、先日まで貧乏だったみすぼらしい青年が、異国での商売を経て金を纏って帰り、見知らぬ者にまで道端で酒を奢り始める、そんな不規則な街だ。

その街の一角の、屋台ではない飲み屋(というのはつまり、それなりに中級の暮らしのものたちが集う店である)の奥に、2人の男が居た。
1人は、紺色の着流しの上に濃い色の羽織を着た男。目はやんわりとしていて口元に髭などはなく、全体的に整っていて、好感が持てる顔つき。人当たりがよさそうで、実際、人によく思われる笑顔を作るのは得意な男である。
名は、相原大慈(あいはら だいじ) 美しい美しいともてはやされた少年が大人になったその後のような姿をしている。
その隣で呑み相手になっているのが、澤田 吉五郎(さわだ よしごろう)という男。こちらも大人しそうな体格だが、手だけは厚く、無骨である。爪の先が丸く、指は少し短い。大型犬のような雰囲気をかもしながらも、目だけは鋭く、敵の様子を窺う野良猫のようである。店に人が入ってくるたび、しゅっと横目をやり、どんな人物か見ている。用心深い。黒い洋服の上に、黒い西洋のコートを羽織っている。
「辛いものじゃないか」相原が言った。「歌も詩も何も真実じゃない。人は人なんて愛さないんだよ」
「愛することもあるだろう。愛がなくて君、世に夫婦なんているわけないじゃないか」澤田は無関心そうに答えた。
相原は酒を煽ると、杯を裸電球へかざした。呑んだ唇の後がぎらぎらと光る。
「世の夫婦もまた全て仮面だ、仮面。愛なんてない。愛なんてないんだ、…あの女の表情を見たか。腕を組んで、腕を組んでいたんだぞ。あの隣の男を知っているぞ、僕は。あれは銀行の男だ。隣町の、銀行の男だ。あの女の表情を、ああ、表情を…」
「見たさ。まあ、楽しそうだったな」
何週間か前、君の隣に居るときよりも、という一言を付け加えなかったのは、澤田の良心でもなんでもなく、早く帰りたいという気持ちによるものである。
「しかしまあ、あれはきっとあの男の財産目当てに違いないよ」
澤田が言った。相原はテーブルに突っ伏した。店主が皿を拭きながら、迷惑そうに彼を見た。
「いやだ、ああ、いやだ。死んでしまいたい、吉さん、僕は死んでしまいたい」
勝手に死んでしまえ、恋狂いめ、という言葉を、澤田は酒と共に飲み込んだ。一瞬喉がひりひりと焼け、強い麦の香りが喉奥から口内に漂う。
「まあ、…なんだ」
澤田は言った。
「生きていればきっと良い事もあるだろう。あの女――カオルだったか。あんなのよりいい女に出会う事もあるだろう」
相原は突っ伏したまま、顔だけをぞりぞりと動かし、澤田を子犬のような目で見上げた。この目つきは、彼が小さい頃から自分を肯定してもらう為に使ってきた目つきで、いわば癖のようなものだった。長年の付き合いの澤田は、相原が事あるごとにそれをあらゆる女性に使うところをたびたび目撃していた。
「本当だろうか?」相原が囁くように言った。「本当に、あの女以上の女に出会えるだろうか?」
「出会えるさ」
澤田は、まだ麦の味が残る口の中を一舐めして、言った。
「大体ね、大慈よ。あの女はちょっと鼻が低かったじゃないか。あれで妥協するほど君が人の中身を見る人間だと、僕は知らなかったよ」
「僕はもとより人の心を見るさ。女は性格、性格の小奇麗さだ。嘘じゃない、嘘じゃないぞ」
「ああ、しかし、外見にこだわりもあるだろう」
「そりゃ、無いわけじゃぁない。無いわけじゃぁない。そうさ、美しいものだ、美しいものはいい。けどね、吉さん。誰だって、どんな男だって、いや女だって、美しいものがいいじゃぁないか。そう考えるだろう」
「まあそうかもしれないね」
澤田の目は、相原とは違う方向を見ていた。真っ直ぐ前の厨房。器用に小刻みに動き、鍋の中の煮物をくつくつ揺らす、菜ばしの残像。見え隠れする豚の肉。皮一枚下の桃の色。積み上げられた皿。取りきれない汚れ。人の声、動き、あらゆるもの――
「まだ呑むのかい」
澤田が、隣の相原に聞いた。
相原は、「これはまだ始まりだ、それにすぎない」というような事をむにゃむにゃ言った。そしてがばっと起き上がり、乱れた髪を整え、空になった杯を満たすよう声をあげようとしたので、澤田はあわてて彼の口を手で塞いだ。
「まあ、今日はもういいだろう。これ以上呑めば、血の変わりに酒が体内を廻るようになってしまうぞ」
ぐったりしている相原の体を羽交い絞めにするようにして、澤田は言った。相原の右手は、ぐったりはしているものの、酒を求めるように動き続けている。澤田は店主に目で合図をした。勘定を書きとめた紙が、煮物の湯気の向こうからばんと置かれる。
「相原、金だ、ほら、金」
「うぅ…」
既に相原に半分意識は無いようだった。酔っていない、酔っていない、と呟きながら、必死で懐を探っている。その胸から、じゃらり、と異国の首飾りが垂れた。
結局、澤田が相原の右の袖の中から札入れを取り出し、むっつりした顔の店主に見送られながら外へ出るまで、だいぶ時間がかかったのだった。

ひやりと冷える夜だった。季節からすればまだ暖かくてもいいのに、海の浅黒い風が直接吹き込む今日は、何故か肌寒い。
街のあちらこちらにはまだ飲み屋の明かりと騒がしい声が点々としている。3丁目の十字路まで歩く道中、相原はこう言い続けた。
「愛なんて幻想だ、幻想。…気立てのよさそうな女は、大体気立てが悪いんだ。女というものそのものが幻想なんだ」
「それでも君は、1日たりとも、女に愛されていない生活が出来ない様だがな」
「誠にそうだ、誠にそうなんだ! 男はね、君、女に愛されていなければ人間でないよ、いや、本当に。…しかし確かに、あの女の鼻は低かったな」

電灯の明かりが地面にくっきり形を残している。星の輝きは人工的な灯りの中で、かろうじて目に見える程度でしかない。黒く塗りつぶされた夜を押し返そうとする、裸電球の瞬き。
ぼうっと光る街灯の下、3丁目の十字路で、相原は立ち止まった。
「それじゃあ吉さん、またな」
「1人で帰られるわけがないだろう、まだ付き添うよ」
「いや、煩わせるのも申し訳ない」
「既に僕は煩わされているのに」
「まあとにかくなんだ、さらばだよ」
相原は手を振り、半ば澤田を振り切るようにして、十字路を左に折れた。そんな相原を澤田は立ち止まってみていたが、やがて首を振り、コートのポケットに手を突っ込むと、自分の家に向かってぶらぶら歩き始めた。

 相原は暫く、4丁目の西の自分の家に向かって、よろよろとしながらも歩いていた。時々目を擦り、立ち止まって電柱に寄りかかり、何かの幻影を見てうつらうつらと眠りかけ、冷たい地面の感覚と共に起き上がり、また歩き出す。
澤田と別れてから、10分ほど経った頃の事だった。相原はかわらず、狭い道の間をゆらゆらと歩き続けていた。
「いやに、くらくらするじゃないか」
景色が揺れた。異変は、さらに起こった。
「…おや?」
半分夢見心地で歩いていた相原の耳に、何かが聞こえてきたのだ。何か、歌のようである。
相原は周りを見回した。辺りは、古い家の並ぶ通りである。飲み屋があるわけでも料亭があるわけでもない。こんな時間に、外に聞こえるまでの歌を歌うなど、よほどの非常識な者が住んでいるのだろうか。
相原は誰かの家の土気色の塀に寄りかかり、耳を済ませた。
確かにどこかから歌が聞こえる。耳をくすぐる、美しい音の羅列。波がひいては戻るようなそんな単調さの繰り返しだが、脳に染みこむ心地よい歌だった。
相原はふらふらと前方に向かって歩き出した。先ほどよりも足取りはしっかりしている。吐き気の為か安定の為か、脇腹を手で押さえながら、不思議な歌に吸い寄せられるように歩いて行く。
人工の灯りの無い街角は、彼のその姿を喜んで迎え入れた。相原の背中が、暗闇に解けていく。ちかちか、ちかちか、と点滅していた電柱の明かりが、ぷつんと切れた。
後には、人の居ない通りだけが残った。

2.「洞窟の入り口」

 気づけば街のはずれ、海岸の傍まで来ていた。しかし見た事のない光景だ。
海は黒い闇の穴のようにそこにあり、灰色の砂浜はその穴と陸を隔てる境界線のように横に伸びている。相原が立っている道の先には粗末な石段があり、それが灰色の砂浜まで人を運ぶようだった。

相原の頭は今、酒と闇に侵され、不思議なものを見ていた。
石の階段の下、砂浜の先に、こんもりと大きな岩がある。あんなものがあっただろうか。そして、砂浜の波打ち際からその岩に辿り着くまで、まるでその海に道があるように、ぼんやりと朱色の丸い光が、きちんと列になって続いているのだ。
ああ、縁日の日の提灯に似ている、と相原ははっきりしない頭で考えた。
ざっ、と大きな波が砂浜を覆った。朱色の丸い光もまた、波に寄せられてゆらゆら揺れる。
その時相原は、巨大な岩の正面に穴がある事を知った。人が2人ほど通れそうな穴である。
「なるほど、あれは洞窟なのか」
相原は石段の一番上にどっかりと腰掛け、しばし波の音を聞いた。何度瞬いても、目を擦っても、海面に浮かぶ朱色の光は消えない。相原は、あれは実在しているものなのだ、と悟った。
顔をあげれば、人々の光を飲み込むような黒い空があった。また、波がざざっという音を立てる。それと共に、相原を此処まで導いた不思議な歌が、また細々と聞こえてきた。それも、海上の岩の洞窟の方からである。
「そこに居るのか、そうなのだな」
相原はぱしんと膝を打って、立ち上がった。よろよろと石段を降り、時々よろけて尻餅を打ちながら、砂浜に下りる。じゃりじゃり、と足袋の中に砂が入る感覚。不快だが、酒のせいか、その感覚もぼやけている。
膝を前に押し出すようにしながら、相原は前へ前へ進んだ。朱色の光は、誘うようにふわふわと揺れている。
ざざぁ、と波が音をたて、しゅわしゅわと泡を残して去っていく。
波打ち際に、相原は佇んだ。濡れた砂浜に足を置くと、じゅくっという音を立て、足元が少し沈む。
相原は全身をぶるりと震わせた。真っ直ぐ前には、怪しげな光に照らされた洞窟がある。来る者を拒絶する、ごつごつした岩肌と、巨漢の髭のようなざらざらした苔。
しかし、耳に聞こえる歌はどうだろう。少女のような、少年のような、なんともいえない甘い響きである。単調にあがり、さがり、またあがり、さがる。ともすれば、詩の朗読にすら、聞こえる。
「どんな人物が歌っているのか、是非とも、確かめるのだ」
相原は、羽織の前をきゅっとしめ、冷たい水の中へ足を滑り込ませた。そして、驚いた。
「なんだ、暖かいじゃないか」
海水には、冷たさがなかった。肌に吹く風は肌寒いというのに、海の水は驚くほど暖かいのだ。それはまるで、人肌で温めたようである。
ずぶ、ずぶ、じゃぱ、じゃぱ。
激しい水音を立て、相原は前へ前へと歩いて行く。水かさは、膝丈以上には深くならないようだ。暗い足元も、例の朱色の光がやんわりと照らしてくれている。ぽつぽつと星の灯る夜空の下で、相原は浅い水の中を歩き続けた。
歩けば歩くほど、洞窟に近づけば近づくほど、細々とした歌は次第に大きくなっていく。洞窟の内部の響きのせいで、今やもう、その息遣いすらも繊細に聞こえてくるほどだった。
相原は機嫌をよくして、夢見心地で歩き続けた。海の中を歩いているという足の感覚も、もう彼にはない。彼自身、波に揺れる海の生き物のように、ゆらゆらと揺れながら、洞窟を目指して歩いているのである。

洞窟の暗さも、内部から相原に向けて吹いて来る風も、何も彼に恐ろしさなど抱かせはしなかった。
そして彼はいよいよ、洞窟の入り口に辿り着いた。ざらざらとした苔。黒い入り口は、巨人の咥内のようである。中からは、こおおっ、という風の響きと共に、美しい歌声が聞こえる。あちらこちらに反響して、何人もの合唱に聞こえた。
「さあ、どのような人なのだ」
相原は洞窟内へ1歩踏み込んだ。ぱしゃり、と水を1度跳ねさせただけなのに、その音が何重にもなって帰ってくる。
朱色の光はもう無く、相原は壁に置いた手の感覚のみで歩き続けた。暗い中、自分の息遣い、静かな歌、水の音だけが聞こえる。
やがて、暗闇一色の視界に、光が見えた。ぼうっと光る、緑色。蛍の光にも似ている。それが、狭い洞窟の中の岩肌を照らしている。
相原は足をせわしなく動かした。激しい水音が跳ね返る。その音に紛れて、ふっと歌声が聞こえなくなった。辺りは水音と、かろうじて聞こえる外の波の音だけになる。
それでも相原は足を動かした。重い水を蹴り上げるようにして、先へ先へと進んだ。

そして辿り着いたそこは、洞窟の最奥だった。存外に広い空間である。相原は立ち止まった。足元では、波打った水面が洞窟の壁にぱしゃぱしゃと当たっている。
緑色の光に包まれた、洞窟の最奥。少し広くなった空間。見た事もない花が、岩肌にくっついてばらばらと咲いている。
そしてその中央には、1人の人間が居た。
西洋の人形のようである、と相原は思った。しかしよく見れば、古い浮世絵の中の美人画に似ている、とも思った。
目は黒い宝玉のように丸く、驚いた目でこちらを見ている。髪は長く、水の中までひたひたと続いていて、その首も肩も腕も手も、不気味なほど白い。
顔立ちは少し幼いが、人間の少女ぐらいの年齢。しかし、髪は長いものの、鼻筋は少年ぽく、目の柔らかさは少女らしくあるので、この目の前の人物の性別が男か女かは、この暗い洞窟の中では分かりかねた。

「歌を歌っていたのは君か」
相原は、相手の顔を見つめたまま尋ねた。
相手は目と口をぽかんと開けたまま、何も答えなかった。
相原が再度繰り返した。
「歌が聞こえたからここまで来たのだ。君の歌だろう?」
相手は――人魚の子は、どう対応すればいいのかわからず、とにかくうんと頷いた。
「君はずっと此処にいるのか」
相原が、洞窟内を見ながら言った。壁に咲いている花の種類は分からないが、とにかく地上のどの場所でも見た事のない種類である。どこか、人の顔や手にも似ている花だ。色も、桃色や朱色ではなく、白や青や肌色に近い。しかも、その花の茎は相原の見ている前で、今もなお天井や壁へとしゅるしゅるとツルの先を伸ばしているのである。
まるで生き物のようだ、と相原は思った。
「ここは、何もかもヘンな場所だ」
酒にうなされた頭を抱えたまま、相原は言った。彼は、やはりまだ半分夢見心地だった。今ぼんやりと見えている洞窟の内部も、緑の光を放つ草や花や苔の存在も、目の前の男だか女だか、分からない相手の存在も、全て半分ぼやけた夢見心地の世界にいた。
「ヘンな場所? …そう思うということは、人の世界は、こうではないのだね。目一杯、明るくしてみたのに、まだ足りないのだね…」
人魚の子が、不服そうに言った。相原は目をぱちぱちさせながら、相手を見た。その瞬間に、酒のまわった頭でも、ああこの子は、人間ではない子なのだ、と悟った。ぱちん、と閃くものがあった。
相原は、膝を折って相手と目を合わせた。なるほど、この端整な顔は、どうも人間離れしている。
「君は、人ではないのだね」
ぱしゃ、という音が聞こえた。見ると、人魚の子の、腿や膝や足首のあるべき場所は、魚の下半身そのものだった。子どもが、悪戯でこいのぼりを足から被った様子に似ている。
「あなた方にはないものが、私にはある」人魚の子が言った。「そしてあなた方にあるものが、私にはない。…足のことだよ」
人魚の子は、今はもう臆している様子は無かった。真っ直ぐ、相原の目を見つめている。洞窟の内部のような、深い深い瞳。
相原もまた、人外と分かっていても相手を見つめていた。その瞬間確かに彼は、相手が魔性だろうと魔物だろうと、このまま変わらず見つめていられる、と感じていた。そしてそれは、いくらでも、何日でも、何年でも、いっそこの後の一生を、この人魚の瞳を見つめたまま過ごせる、と確信していた。
美しいから、とか、可愛らしいから、とか、そういう理由付けできる感情ではなく、ただただ、こみ上げてくる本能のようなもので、相原はこの人魚を好いていた。

耳の奥に、あの歌が聞こえていた。
その音が波の音と溶けて混ざって、相原の着物に染みこみ、侵食しようとしていた。相原はそれに気づいていなかった。仮に気づいていたとしても、人魚を見つめている至福に包まれた相原が、その人間外からの侵食に抵抗したかどうかは、分からない。
暗く、不思議な夜だった。



→(2)

1/2/3/4/5/6/7

inserted by FC2 system