*ランダムなキーワード*
「優劣」 「暗い部屋」 「図書館に行き」 「休日をつぶされた」


 ぼけたオレンジ色のタイルの上に、黒い影を落とす。
米沢 ミキは、自転車を降りて眩しい日差しに目を細めた。今日も暑くなりそうだ。帰る頃になって、サドルが焼けそうなほど熱くなっている、というのは勘弁して欲しい。
「出てくるときにも日陰になってるっていうと、この辺かな」
そんな事を考えながら自転車を押し、駐輪する場所を決める。目の前の自転車は、いわゆるママチャリ。クマをかたどった子供用の椅子が後部についている。ハンドルの方は涼しげな陰に入っているが、ビニール製の子供椅子は既に日差しに熱されている。数十メートル先の道路がゆらゆらと揺れる今日の気温は、本当に惨たらしい。
ここ、という部分で立ち止まると、ミキはカゴに入れていたリュックサックを取り、片方の肩にベルトを回した。スタンドを立て、鍵をかける。じゃらり、と鍵につけていた犬のマスコットが揺れた。
「…あれ」
歩き出そうとしたミキは、ふと視界の端に揺れるものを見つけ、立ち止まった。駐輪場、と書かれた立て札の下に、何か蠢く――
「あ」
猫だった。茶色くて、目はどんよりしている。首輪はなく、毛の端々が汚れているので、どうやら野良猫らしい。実際、少し痩せ気味だ。
猫は、ミキが近づく前にくるりと向こうを向き、のっそりのっそりとミキの目的地とは反対方向へ歩いて行った。痩せているわりにでっぷりした尻が左右に揺れている。
「なぁんだ。…さて」
ミキは、ふっと息を吐くと、これから篭城する予定の建物を見上げた。ずらりとならんだガラスの窓に、日光が反射している。眩しい。
表の石碑に、筆文字で「市立市原図書館」とある。ミキの祖父の代ぐらいに作られた図書館だが、数年前に大規模な改修をしたので、まだ新しい。なので、正面玄関の壁も、花壇の植え込みも、煉瓦をかたどった柱も、まだどこか瑞々しいのだ。
ミキは、正面玄関までの階段を一段一段上りながら、背中に背負った荷物の重さを肩にずっしりと感じた。肩の重さを中心に早くもTシャツが汗ばむ。ネックレスの鎖が汗ばんだ首筋に引っかかって少々不快だ。
緑のチェック柄のリュックサックに入っているのは、財布、自転車の鍵、大学のテキスト、参考図書、資料(大学の図書館でコピーしたものと、友達の集めた資料をコピーさせてもらったものの2種類)にノート、プリントをしまったファイル、筆記用具、その他である。
「提出期限は、今週末」
ミキは、自分に言い聞かせた。厳密には、土曜日の昼13時、教授の部屋までである。そして今日は、木曜日の朝11時。前日の水曜、明日木曜日の講義が休講になった事を知ったミキは、「明日は図書館に1日こもって、提出用のプリントを仕上げるぞ」と、決意したのだ。
世の中には、家でしかテスト勉強の出来ない人間と、学校や図書館など家でない場所でしかテスト勉強の出来ない人間の2種類が居る。
今、市立図書館の正面玄関の自動ドアの前に立つ米沢ミキは、明らかに後者の人間のようだった。

館内は、外に比べると天国と地獄、というほど涼しい温度が保たれている。纏わりついていた暑さの服を脱ぎ捨てる爽快感に浸りながら、ミキは、
「文明が自然に勝った瞬間ね」
と、口には出さずに心の中で呟いた。
静けさがぴりぴり張り詰め、時折、ページをめくる音、本を置く音、それに、カウンターの方からは本のバーコードを読み取る電子音が聞こえる。
玄関から入ってすぐ左手にカウンター、右手には膨大な量の本棚がどんどんと並んでいる。そのさらに右手には、ガラス張りの窓辺。雑誌ラック、ソファ、テーブルと椅子が設置してある。
ミキは、真っ直ぐに窓際へ向かい、2人掛け用の席を陣取った。平日の昼間、人は少なめだ。本棚の間を歩く中年の男性。シャツがくしゃりとズボンからはみ出ている。
それに、近くのソファに座っている老人。誰もがスポーツ新聞で顔を隠している。1人か2人は、寝ている。時折、かくりとバランスを崩し、体勢を立て直す。
ミキから一番近い4人掛けの席には、大学生らしい集団が構えていて、資料や地図や電子辞書を、テーブルの隅から隅まで広げている。どうも、日本語ではないらしい。大げさな身振り手振りで、重要な事を決めている様子だ。その仕草が、頭の良さを誇示しているようで、少し不恰好。

 ミキは、リュックサックを右隣の椅子に置き、中身を出した。今から取り掛かる課題の担当教授の谷原氏は、手書きの論述を求める風変わりな人物である。
「そりゃあ、200人300人の講義なら、いちいち読みにくいから活字を求めますがね」
ミキの耳の奥に、谷原の声が再現された。
「皆さん今、この教室に20人しかいないじゃないですか。こういったね、少人数授業では、ワタシは手書きがいいと思いますヨ。たまには、漢字を書いて右脳をね、右脳を鍛えなければ。右脳を鍛えれば、将来いい子どもが生まれる! なんせそうなんですからネ」
谷原の専門は脳科学などではないのだが、どうも聞きかじりの知識の多い教授である。ミキは、人の性格や考え方などを判断し、「この人は○○」「あの人は○○っぽそう」とすぐに判別して決め手かかるタイプの人間ではなかったが、とにかくあの教授には「なんかヘン」というイメージを抱いていた。何せ、入学して2年、変わることなく個性的な変人なのである。
ミキは、次々に資料やファイルを取り出した。参考になる資料は左隣、右にはプリント、端に時々覗くためのノート。紙の擦れ合う音。出来るだけ静かに準備していく。大体の用品を揃えたところでふと、
「あ、お昼ご飯どうしよう」
そんな事を頭の端で考えつつ、ミキはゆるゆると課題に取り掛かった。
資料を参考にし、ファイルからプリントを数枚取り出しては仕舞い、講義の内容を思い出しながらペンを動かし、時々致命的な言い間違いや、「…あれ、あたし何を言いたかったんだっけ」という修正点を見つけては、せっかく書いた5行の内3行を消し、また書き直した。時間の経過と、消しゴムのカスの量は比例しているようだった。
A3用紙の左半分を埋めたところで、ミキは息を吐いた。少し重たく感じてきた腕時計を外し、ついでにネックレスも外して邪魔でない場所に置く。ぱっぱ、とプリントの上に積もった消しカスを払い、ミキはまた周りを見た。
さきほどまで新聞を読んでいた背の低い老人が、今は雑誌ラックの前に居る。将棋か、囲碁か、ゴシップ誌か、囲碁か、いや将棋か――釣り雑誌を選んだようだった。
小さな男の子を連れた母が、家庭料理本の方へと歩いて行く。ゆるやかな服を着たお腹が、少し大きい。男の子は早く帰りたいようで、何か言おうとするたびに、母親に「しー」とたしなめられている。ズボンの尻ポケットが砂で汚れていた。

ミキは、両手をあげてぐっと伸びをした。限界まで伸ばす。指先がぴりぴり痛くなるまで――
伸びの途中で、ミキは目を見開いた。
視界の左端、本棚と本棚の間を歩く男性が居た。薄汚れたレインコートを着た、着膨れした男。泥と垢で、明らかに臭いそうな風体。猫背で、無精ヒゲだらけ。目が、ぎょろりとしている。鼻が大きく、特徴的。
「…松田先生?」
ミキは小声で呟いた。男とミキは、本棚6つ分ほど離れているので、もちろんその声は本人には聞こえない。けれど、あの歩き方、鼻の形、くしゃくしゃの髪。猫背だから目立たないけれど、ガタイの大きな身体。
それは、ミキの高校3年生の時の担任の教師、松田順太郎そのものの姿だった。
ミキの目の中に、鮮やかな記憶が蘇った。
耳の奥に、当時の声がそのまま聞こえる。

 その教室の空気は、湿っぽかった。高校の、3年生。殺伐としていない日は1日もなく、生徒の半分が、多少頭がおかしくなったり情緒不安定になったりするのは、車の便利さに伴う交通事故のように、抑えられないものだった。
ミキ自身も何度か心が折れそうになったこともあり、部屋にあったガラス製品や陶器類の半分はその時に割って壊してしまった。顔の半分を無くしてもまだ微笑むパンダの陶器飾りは、大学に入った折に捨てた覚えがある。
その高校時代の乾いた殺伐とした空気にさらにヒビを作っていたのが、市原第2高校3年1組担任、学年主任の松田順太郎だった。その高い身長をもって人を見下すことが好きで、「良い結果を残した者にはそれなりの待遇があるべき」を信条にしていた。よく出来た生徒には「よく頑張った」と言って次を求め、求めた結果を出さない生徒には鬼のような叱咤を見せ、その生徒の答案と点数を掲げてクラス中の晒し者にする事もよくあった。
「自業自得だ、良い結果を残さなかったのだから」
泣いて教室を飛び出した女子生徒を見送りながら、松田はうんと頷いた。
そして、というか、故に、と表すべきか、彼はとにかく「優劣」にこだわる人間であった。「人間にはとにかく優劣が伴う。君たちは今、勉強をするだけで優劣の優にのし上がれる。油断をするな、今ここでの油断は死と暗い未来を招くぞ」
この言葉を、高校3年生の間に何度聞いただろうか。
松田を嫌う生徒は多かった。ミキも、どちらかといえば嫌いだった。当時の事を思い出す時、どれも映像が不鮮明でモノクロになっているのは、十中八九当時のストレスのせいであると言える。
高校を卒業し、県立の大学に進むとき、「卒業する」というよりは、「脱出する」と言った方が、意味と心境的には近い。ミキはそう思っていた。

米沢ミキの高校時代に絡みつく気持ちの悪い黒い不鮮明な物体。その核に程近いところにいる人物、松田。
それが今、どう見ても現役の教師とは思えない姿で――誰が見ても、家を失った浮浪者にしか見えない姿で、視界に居る。
ミキは、椅子の背を握り締めた。

松田の風貌には、周りの人間も目をひかれるようだった。とはいえ、ちらりと見て、えっ、と2度見をして、すぐに目を伏せ、また横目で見る。決して誰も、目を合わせようとはしなかった。
そんな人々の中を、松田はのっそりのっそりと鈍足な動物のように歩いて行く。あんなに機敏でない"松田センセイ"なんて。ミキは目を見張った。
と、その瞬間。
松田がふっと首だけを後ろに捻った。振り返ったのだ。ミキは慌てて姿勢を元に戻そうとしたが、間に合わなかった。
松田の曇った目が、ミキを捉えた。ミキは目が離せなかった。本棚6つ分だった距離は、もう10個分にはなっている。松田のぼさぼさの髪も、頭も、ほんの指先程度の小ささになっている。
それなのに、目が離せない。松田の目が、こちらを見ている。
――と、緊張がふっと途切れた。
松田がまた正面を向き、歩き始めたのだ。もうこちらを振り返る様子はない。

ミキは、ほうっと息を吐いた。暑さとは違う意味で汗ばんだ手で、ペンを握る。次に何を書こうか、頭から吹き飛びかけていた。

 吹き飛びかけ、脳みその端か反対側に行ってしまった情報は、手繰り寄せてもおびき寄せても中々戻ってきそうになかった。頭に浮かぶのは、モノクロや灰色の景色ばかり。セーラー服、冷めた廊下、後ろから追ってくる鬼、その顔は松田。ミキやその友達の赤いスカーフを持って、締め上げるような手。実際に首を絞められるなんて事はなかったけれど、真綿で首を絞めるというのはああいう事だろう。いや、どちらかといえば、冒険ものの映画や小説の中で見かける、壁が迫ってくる拷問部屋、あの中に少年少女を放り込んで、上の方の覗き窓から見ている姿。監視者の出す課題によりよく答えたものから楽になれる。そういうシステムの部屋。やはり、卒業よりは、脱出の2文字だ。
「何処に行っても競争、かぁ」
ミキは、ほんの少ししか進んでいないレポートを見下ろした。
この文字の羅列のどこに、明確な点数がつけられる? 無限に存在する文字の取捨選択のどこに、優劣がある?
「ううん…」
ミキは目を閉じた。暗い世界がぼわぼわと広がる。
世の中の判定基準は、それほど簡単一枚岩じゃないのね、などと哲学的な世の仕組みについて考えてみる。――というような寄り道をしたものの、やはり用紙の残りの半分を埋める言葉が脳の裏側から帰ってきてくれる様子もなかった。
「こういうのはよくないね」
ミキは立ち上がると、筆記用具を纏めてポーチに納めた。貴重品をハーフパンツの尻ポケットにねじ込み、書類を適当にまとめ、椅子を戻して軽く伸びをした。手首をぶらぶらさせ、ふぅと息を吐く。
「何処に行っても、活字、活字」
ここは図書館。何処を見回してもめくるめく活字から逃れることはできないが、それでも、少し体を動かそう。その間に、考えが纏まるかもしれない。足音をあまり立てないように注意しながら歩き出す。
カウンターの上にある時計を見ると、12時半だった。空腹を感じてもよい頃なのだが、活字で腹が膨れたのか、空腹感もまだ遠い。
少し、奇妙な日だった。

 ミキは、図書館の奥の方へぶらぶら歩いていた。嫌な思い出があるとはいえ、やはりあの松田の風貌、現在の様子は気になったのだ。
「えっと、確か…」
松田が歩いて行った方向は、正面玄関とは反対側の自習室の方だった。後を追って話しかけようなどというつもりは毛頭無かったが、もう1度だけ、様子を見たいと思ったのだ。ひょっとしたら、少し顔の似た別人かもしれない。そうであれば、少し安心するかもしれない、とミキは思っていた。
しかし、あの浮浪者が松田でない事が何故安心に繋がるのか。その明確な理由は、はっきりとしなかった。
自習室近くの本棚には、主に建築関係と園芸関係の書籍が置いてあった。玄関から離れ奥まった場所にある為、あまり日の光が感じられず、天井の照明だけが明るい場所だ。自習室の入り口も大きく開いているのだが、内部はやはりどこか薄暗い。
ミキは、自習室から少し離れた本棚の影に移動した。「日本の建築の歴史 大正から明治」の前に立ち、自習室をちらちらと見る。
室内には、白い長テーブルが2列並んでいた。中にはやはりというべきか、松田が居た。入り口から3番目の机の前で、椅子を3つ並べて足を投げ出している。くたびれた灰色の靴下が目立った。
松田が此処に入ってくるまでは、誰かが居たのだろう、とミキは思った。床や机に、ペンや紙が2,3枚落ちている。
松田は、ミキに気づいていないようだった。どこか虚空の一点を眺めている。時々、足を組み変える。無言。暗く湿った空気が、纏わりついている。どこか、西洋のスラム街の裏道を思い起こさせる風景。しかし、美化されていない。ありのままの汚さ。窪んだ目。惨めさの滲んだ孤独な姿。
「…どうみても…」
何度見ても、やはり松田のようだった。
ミキは、なんだかあらぬものを覗いているような気分で、棚の角に手をかけた。心なしか、指先が震えている。緊張しているのだろうか。
背後で足音が聞こえた。ミキは身をすくめ、振り返る。
ロビーから続く通路の方から、白いシャツに紺色のエプロン、図書館の職員2人組みが歩いてきていた。中年の女性と、まだ若い男性。女性の方が背が高い。男性は、痩せている。
「ホームレスなんすか?」男の潜めた声。
「家があるかどうか分かんないわよ。本町の方のぼっろいアパートに住んでたって聞いたけど、それも何ヶ月も前の噂だしねぇ」女性の低い声。
ミキは、「日本の洋館建築の移り変わり」の背表紙を凝視した。本を探しているように見せかけるため、指先でざらざらした装丁をなぞってみたりもする。しかし、耳だけは、びんびんに神経を張り詰める。
「なんか、昔はアレで学校の先生だったらしいよ」
女性は、男性の好奇心を沸きあがらせるような言い方で言った。
「あたしの友達の娘なんかも、あの人の教え子だったらしいけど…なんか色々問題があったらしくて、教室で事件起こして――これ、あんまり誰も話してくれないから、ほんとかどうか分かんないけどね」
「ニュースとかにはならなかったんすか?」
「それが、学校の方で自己解決したらしくてね。ほら、原因になった奴の解雇と、謝罪をもって解決って感じ? 当事者しか知らない事件らしいよ。その当事者ってのは男子生徒らしいけど…。…ま、想像で何を言ってもねぇ。でもさ、そう言ってもあの人、教師なんかには見えないよねぇ」
「まあ、そうですね」男性の答えは簡素だった。
2人が、ミキの本棚の横を通り抜けた。男の腕のごつごつした筋肉が見えた。
ミキは、そんな噂を本棚の影で聞いているだけで、動悸が早まり、息が震えるのを感じた。理由は分からないが、いつの間にか、全身冷や汗と鳥肌にまみれていた。
「うっわ、酒くさっ」
男性の低い呟きが聞こえた。同時に、2人の職員とは違う呻き声。半分、喚き声。
松田のあげたもののようだった。
強張るミキの耳に、サイレンが聞こえた。遠くから迫る、救急車の音。
えっ、と思い振り返り、図書館の窓の外に向けて目を凝らす。赤い光が、ぐるん、ぐるん、と周って図書館の静寂を乱している。隊員が1人、2人、正面玄関の方へ早足で入ってくる。
また、松田の唸り声。
ばたばた、と椅子を蹴る音。金属音。
「さ、ドライブだよ、おじいちゃん」
腕まくりをした中年の女性と、若い男性に挟まれた松田の姿。よろよろと前につんのめりそうになりながら、捕獲された動物のように歩かされ、自習室から引っ張り出される。松田は、クラクションのような迷惑な声をあげ、しかし身体的にはそれほど暴れてはいなかった。両腕を2人に預けられ、一人多いバージンロードのような行進が始まる。絨毯は赤でなく、クリーム色。
周りの利用者も、何事か、と彼らの行進を見ている。あからさまに腕を組んで見物している者も居れば、立てた本の影からちらちら見ている者もいる。指を指す子供の手を優しく握り首を振る女性の姿。彼ら外部の見物人を動物園のチンパンジーの檻の前に置いても、なんら違和感のない空間。規則正しい本棚の影が、檻の1本1本の柵にも似ている。
行進が、ミキの本棚の隣へ差し掛かった。ミキは通路から2歩、3歩退き、松田を見た。空ろな目の松田は、口をもぐもぐと動かしていた。唇がめくれるたび、金歯が見える。あの時から3年しか経っていないのに、彼は10年も20も年をとったように見えた。彼の口は今はもう、「人間の階級と優劣」について演説をすることはなかった。彼が通り過ぎていった後には、垢と泥と酒の匂いが残った。ミキは黙って自分の席に戻った。

10分も経つとざわめきがおさまり、図書室は元の状態に戻った。それでもそこかしこで、潜めた声が交わされている。
ミキは1人、机に向かっていた。文字は文字として頭に入ってこないし、まとまらない単語は文章にならない。
あたし、ショックなんだろうか。
ミキは自問した。
ざまぁみろ、なんて事は思わなかった。
かわいそう、いたましい、とも思わなかった。
なんで、どうして、と、少しは思ったがそれも本質ではなかった。
ミキは、暑さの中で微風に揺れる外の木々を窓越しに見つめながら、先ほど湧いた感情に合う言葉を探した。
松田が運ばれていく様子。不用品を処理するベルトコンベアのように運ばれていく様子。その様子を半分好奇心で見つめる人々、その中に混じって佇む自分。瞬きを忘れ、眼球が乾いた。
その映像が反転して、モノクロに変わった。教壇に立っていた松田。生徒という民衆の上に立っていた松田。見下ろしていた目。ぎょろりと、動く。
ミキは鋭く息を飲み込んだ。
点と点がぶつかりあって、チカッと光った。

不思議。

不思議だった。
目の前にあった林檎が消えてしまう消失マジックを見たような。
クラブのキングだったものが、手の中でハートのエースに変わってしまったような。
ふっと消えてしまった、信じられないものを見る思い。違和感。そぐわない感じ。意味がすぐに受け取れない。そういう状態。
「…優劣かぁ」
昔の松田の立場、今さっき見たくたびれた松田の立場、それに自分が今いる場所――

ミキは、はぁ、と大きく息を吐いた。筆記用具を片付け、プリントをファイルに戻す。テキスト、資料、ノート。全てリュックに納め、ぱちん、とリュックの止め具をかけた。ネックレスを首につけ、腕時計を手首に通す。
立ち上がり、椅子を戻し、ふと首を捻って自習室の方を見た。薄暗い。建物の影が、くっきりと白と黒を分けている。ぼやけた境目。しかし、そこに存在する。
「…帰ろう」
なんだか今日は、課題なんて終わりそうにない。

がーっという音と共に、自動ドアが開いた。ねっとりとした暑さが再びミキに纏わりつく。
「うぇえー」
だらけた声をあげ、ミキは階段を降りた。ぱこん、ぱこん、とあえてスニーカーをタイルに叩きつけるようにして歩く。
ふと、視界がざわめく。
ミキは顔を上げた。玄関の正面、濃い緑の樹木の下に、茶色の野良猫が居た。尻だけがでっぷりとしている。
ミキは、しばし猫を見つめた。見下ろすような角度だが、どこか見下ろされているような感覚。
やがて、来た時と同様、猫の方が先にその場を去った。駐車場の車と車の間をすり抜け、尻尾をしゅっと振り、消えていく。
ミキはその姿を見送った。暑さがじりじりと、肌を焼いていた。

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