*ランダムなキーワード*
「包丁」 「悪魔」 「広く知らせたくなって」 「そこに居たのは小さな女の子。」



銀色の悪魔


 清潔な布で包まれるような穏やかな朝の光を浴びていると、「午前中」とは、何でも出来そうな時間帯だと思えてくる。日本中が、世界中が、さて今日もやるか、と腰をあげているようで、なんだかこんな私にも、何か1つ行動を起こせそうな、そんな気がする。
とはいえ、今私に出来ることなど少ない。普通の人にとってどうでもいいぐらいの造作ない行動が、私には巨大な山を登るように難しいのだ。どうしたものだろう。
 今、私は自分の部屋の椅子に座っている。四角くて、無造作な、白いシンプルな部屋。窓が2つ、白い窓枠に囲われている。部屋には、机と、パイプベッド、アルミラックの本棚。どれも、色は白か黒、ベージュで揃えている。
「夏坂(なつざか)くんは、シンプルなものを好むね」
と、高校、大学、どのクラスメイトにも、そして2ヶ月前まで働いていた職場でも、よく言われた。それが、私と言う人間が周囲に周知された時の通過儀礼のようになってもいる。目立つ色を使わず、柄を好まず、そんな物を扱う人。そういう、イメージ。
自覚の上では、自分は今まで色んなことに無頓着だった、と思う。仕事に使う机を窓の下に置いた理由は、ほんの気まぐれだったろうか。忘れてしまった。自分の人生の色などと向かい合う余裕のない、そういう生き方をしてきたのだ。
けれど、今は違う。
今はこうして、ゆったりと窓の下の机に向かって腰掛けている。ゆっくりと動き出している街を一枠切り取って眺めていられる。それが今は、心地よくて、満足なのだ。
私は、右の壁にかけたカレンダーを見た。病院の日は、明日だ。今日は、何の予定もない。
「何もない日の、午前中」
私は頭の中で、その響きを繰り返した。なんて、淡白で瑞々しく、爽快な響きなのだろう。ぽろっと空いた、隙間のようだ。
私は、右の壁から目を離し、机の上の重厚な置時計を見た。時間は、まだ8時半。何をしようにも、自由だ。私も、身体の事情が事情でなかったら、どこかへ飛び出していくか、或は11時頃まで布団に入っているだろう。

ふと、私は自分の両手を見た。元々太い指ではなかったが、最近の生活のせいか、萎びたように細くなってしまっている。
それでも、ぶるぶる震えてはいない。正常だ。
私は、かく、かく、と両手の指を第2関節から曲げてみた。指は、私からの伝達の通り、動く。たまにぎこちなく、たまに元のように。
今日はいい日だ。少し早起きできた上に、体の調子も良いらしい。
これなら、字も書けるだろうか。
私は、机の右側にある引き出しから、一まとめになった便箋を取り出した。飾りも何もなく、ただ黒い線が横に引っ張ってあるだけのシンプルなデザインだ。
引き出しをもう少し手前に引くと、奥からころころと黒いペンが転がってきた。以前覚書をしたときに一緒にしまっていたものだ。インクの出が滑らかで気に入っており、長年愛用している。
私は、椅子に座りなおし、机の上に便箋を置いた。ざらざらとした紙の質感は、どこか懐かしくもある。最後に覚書をしたのは、何週間も前だったはずだ。

 私の病気は、非常に厄介だ。厄介というのは、治療の完治までの道のりが複雑であるから厄介、と、そういう意味とは少々違う。
まず病状から説明するならば、主なところは――そう、手の震えである。最初に明確な異変を覚えたのは、仕事中に起こった右手の震えだった。ペンをよく取り落とし、紙を1枚1枚めくれなくなり、財布の中から小銭を取り出して缶コーヒーを飲む事も出来なくなった。
やがてその震えは左手にも起こり、両足が震えだしたときには、私はもう椅子に座り続けることすら困難になっていた。留まっていれば、とめどない全身の震えが目立つので、私は震えの発作が起こったとき、何らかの理由をつけて社内を歩き回った。しかし、膝はがくがくと崩れ、起き上がろうとする手はもう手としての機能を果たさず、指先は私の意思とは関係なく、激しい曲を奏でるピアニストの指のように、勝手な方向へびくびくと蠢いていた。
私の家族が――私の妻とその兄が、私の異変に気づいたのは、病院からの連絡があってからだった。
人はこれを聞いて、淡白な家族と思うかもしれない。そういえば、家族愛というものは私の家の中にも、私のこれまでの人生にも、ひどく希薄なものだった。

 病院の壁は不気味なほど白く磨かれていて、純白というよりは、薄汚れた銀色に見える。脳の中を見る検査に向かう途中、私は、意志も感情もない壁を眺めていた。その壁に、自分の人生を投影していた。改めて、振り返っていたのだ。
思いのほか、記憶の中に浮かぶ場面に、その場面に伴うべき感情が呼び起こされはしなかった。
学校で作文を発表しているとき、緊張していただろうか、得意げだったろうか。
友達と体を動かしているとき、爽快だったろうか、疲労していただろうか。
母の知り合いに「好きな食べ物はなぁに?」と聞かれ、何も答えられずに居たとき、困惑していただろうか、必死に考えを纏めていたのだろうか。
よく行く公園で、知らない小さな女の子に話しかけられて一緒に遊んだとき、緊張しただろうか、慣れ親しんだだろうか。
本命の学校に落ちて滑り止めに入学が決まったとき、会社の面接室のドアを叩いた瞬間、結婚を決めたとき、それを友人に知らせた日。
どの場面を思い出しても、感情の針は動かなかった。てんで、錆び付いて動かないようだった。あの時の私の心は、対面する銀色の壁よりものっぺらとしていて、石に似ていた。ぶるぶる震える身体のように、あるはずの機能を停止していた、と言える。
検査に立ち会いにきた妻は、そんな私を見て言った。
「元気そうじゃない。なんか、ケイレン起こしてるって聞いたのに。寝てなくていいのね」
そして、廊下に響いたその言葉を聞きなおしてから、もう一言付け加えた。
「大した事、なさそうで何よりだわ」
壁と向かい合う事に全力だったその時の私には、かけられた2つの言葉のうち、後者の方が本心である、とまで考える事は出来なかった。もしその時の病状が、身体が震えて心が硬化するというものでなく、ただのインフルエンザや1箇所2箇所の骨折だったとしても、私は妻の2つの言葉を両方ともそれなりの本心であると捉えただろう。
あの銀色の壁に囲われる時まで、外見上、妻は妻としての役割を果たしていたし、私も夫としての仕事が出来ていた。
今の私なら、そう、妻の中にある黒い核が見えた私ならば、妻の言葉をこう修正できる。
「まだ仕事が出来そうね、ならよかった」
この言葉を、妻は妻として、黒い核を飾り立てた皮膚の中にぐちゅりと押し込めたまま、よい妻のままの微笑みで言えるだろう。彼女の微笑みは、20歳の時に出会った時と変わらず、むしろ年季を増してきている。
結婚をして5年目。純子がそういう女だと、或は世の女とは皆黒い核を持っているものだと、私がそれを知るきっかけになったのは、とにかく病気が起こったからなのだった。

脳の中身の検査の結果は、医者によって簡単に提示された。その時の私は心もぶるぶる震えていて、何かを理解するにはその震えを抑えねばならず、よって医者の長い言葉は、要所要所を汲み取って私の中で断続的に理解された。

要するに、こうだった。
私のこの症状は、脳の問題ではない。
身体の問題でもない。
必要なのは、精神科による治療で、十中八九、原因はストレスによるものだ。

隣でそれを聞いていた妻は、「でも家では何も問題ありませんでした」と、食い下がった。彼女の中では、私は平常な人間として生きるべきなのだ。何も異常はない、五体満足、全身健康の身体で。
妻は医者に言った。
「家では、自分で珈琲を飲んだりしていました。こんな風になっていませんでした」
私を指差し、泣き出しかねない妻の様子に、医者はさっくりとこう言った。
「職場でのみ発生するという事もあります。何かお仕事で受けるストレスが大きいのでしょう。暫く、休職したほうがよいでしょうね」
「い、一体どれぐらいなの? この人、いつ戻るの?」
「分かりませんが、こういう症状の改善は人それぞれなのです。数ヶ月かもしれませんし、数年規模に及ぶかもしれません」
それを聞いた妻は、今思い返すと、まるで自分の両腕の切断をします、と言い渡されたような表情をしていたと思う。
妻は叫んだ。
「おかしいわ、おかしいわ。だって家では健康だったもの、家じゃ平気だったもの。仮病ね、嘘よ。仕事がちょっと辛いからって、仮病で休もうとしてるのね」
医者は妻をなだめようと両手を振り、
「まあ、まあ、ご主人にも休む時間が必要ということです」
と言った。しかし、落ち着く様子もなく、妻の目は血走っていた。その背後に、轟々と盛る炎が見えた。
「心の病って何よ、とっとと薬飲ませて治しなさいよ。貴方、家じゃ、家じゃ平気なんだから!」
硝子に爪とフォークを立て、ぎぎっと引っ掻いたような、不快な叫び声。薄ピンクのナースに止められた妻を横に見ながら、石の私は、消毒液とゴムの匂いを懐かしいと感じていた。
小学校の、保健室に似ていた。遊んでいる途中、公園で転んだ小さな女の子を学校まで連れて行き、保健室の先生に預けた。先生の白衣越しに、女の子の膝の皮膚の下の、桃色のじゅくじゅくした何かを見た。
あの時、人間の皮膚の下に、人間ではないものを見た。好奇心を持った。
妻の絶叫と物が倒れる音、何かがぶつかって薬品棚がミシミシ言う音を聞きながら、私はその感情を思い出していた。

 診察室で妻の純子は、「家に居たときは普通だった」と言ったが、これは嘘だ。
検査の日より前、私が倒れるまで、妻はあまり家に居なかった。むしろ、自称自由業の妻の兄の今野 勇夫(こんの いさお)の方が、給料日近くになると私の家に居ついていた。
「いや、世の中資金という水がないと、夢という植物は育ちませんね」
と、言うのが、彼の口癖だった。それはまるで、彼の人生のシュプレッヒコールのようだったが、それが実際の実りをもたらしているかといえば、肯定しがたい。
とにかく勇夫は、
「妹の純子が世話になっております、これはワインです。いいものですよ」
と言いながら、何とも言えない味のワインのボトルと銀色の栓抜きを振りかざし、家のキッチンで飲み食いをした。時々皿の1枚2枚を洗っては、
「ああ、どうもどうも気にしないでください。厄介になっているものの務めでございますのでね、ええ、ええ、手の荒れなど、なんのその、ってなもんでしてね」
と、私にぺこぺこ頭を下げた。そして、私の身につけている腕時計をハイエナのような目でちらりと盗み見て、その後また人間の皮をかぶって元に戻った。
その間の件の妻・純子は、何かじゃらじゃらしたものをつけて出て行っては、よりじゃらじゃらてかてかして帰ってくる。私には時々、「ああ」とか、「居たの」とか、「そのドレッサー、この間買ったの」と、言う。
そして時々、家に居る姿を見かける。足を大きく開いて、ベッドの上でだらしなく寝ている姿。太ももの肉がとろりと垂れている。それをうまく隠す黒っぽいストッキングは、ベッドの下に落ち、くたっとしている。
仕事をしていた頃の私は、そんな妻の姿をちらりと眺め、寝室の扉を閉め、冷えて油の浮いた夜食を温めて食べ、立ち寄った薬局で買ったサプリメントを胃に入れ、眠りにつき、夜中に起きて、食べた夜食を全て便器に吐き出し、うがい薬を使って喉を清めてから再び布団に入った。
そのサイクルを、異常で不健康だと思っていたのは、最初の1ヶ月ぐらいだった。震えが始まって救急車で運ばれるまで、1年、そうしていた。
仕事は、忙しかった。日本全国、誰に聞いても名前を知っている金融系の会社に入って6年目、「新しい芽を積極的に育てよう」という声のもと、社内の中核の仕事に携わるようになって2年目だった。やる事は多く、責任は重く、周囲の人々はより事務的な機械に近づきつつあり、私の中に蓄積されたマニュアルでは対処できない石の壁が、見るだけで絶望するほど立ちはだかっていた。
胃の空腹を感じず、体に事務的に栄養を与え、事務的に睡眠を与えた。家には、妻の買い求めた欲の殻だけが放置してあった。妻の兄は、「年甲斐もなく妹からもらったお小遣い」で良い服と車を持ち、私に低姿勢の自慢を繰り返した。正月に私の両親は、これからの私に期待している、と言って私の肩を叩き、親戚の誇りだと頷き、理想的で円満な夫婦だ、よく支えている、と妻を褒めた。
やがて私の手は震え、ペンを持つ事を拒絶した。

 検査の日から2ヶ月、治療と休養のおかげか、私の心は大分晴れやかになった。石はほぐれ、もとの柔軟さを少しずつ取り戻しつつある。
がちゃん、と鋭い音が、階下から聞こえた。妻は最近、家に引きこもるようになった。彼女を彩る化粧品が、底をつき、彼女を華やかにしていた要素が枯渇したようだった。彼女はひたすら、酒の瓶を空にし、灰皿を吸殻で満たした。
最近では、山と積もった灰皿を壁に投げつけるのが、習慣になっているようだった。ばらばらとフローリングの床に落ちる灰は、惨めさの染みこんだキッチンの空気の中で、美しい銀色に光っている。
20歳の頃。知り合った時、彼女は女性が好んで吸う銘柄の煙草を吸っていた。だから、彼女に近寄ると常に甘い匂いを鼻孔に感じた。それはシャンプーの匂いでなく、香水でもなかった。
「前の彼氏に、ちょっと吸ってみなよ、って言われて試してみてから、すっかりヘビィスモーカーなの」
彼女は茶目っ気を漂わせ、長いまつ毛を使った上目遣いで私に言った。元の彼氏に酷い事をされたエピソードは彼女をか弱い小動物に見せ、貴方だからこんな話が出来た、という言葉と共に握られた手は、彼女の住む沼へ私を誘った。
卒業から半年ほどして、私達は結婚した。卒業する前から、結婚という事実は日常に溶け込み、当たり前のようにそこにあった。私の就職先の規模と大きさと得る収入を知って、彼女は子どもを授かったのかというほど喜んでいた。飛び上がり、私の頬にキスをした。
「ありがとう、大好きよ」
その場面で、「ありがとう」を使う事の違和感に少しでも気づけていたら、と今は思う。

今の家を買うことを決めたのも、彼女だった。彼女の実家から金を借り、彼女の思い通りの家を建てた。その実家が出してくれた金というのも、彼女の両親が、
「うちの娘のマイホームの為に」
「それはもう1番に招待させますんでね」
と言いふらし、親戚から援助してもらった金が流れてきたという。庭に続く明るい応接室の真ん中で彼女は、踊るようにくるりとターンして、
「同級生の半分は、まだ結婚もしてないのにね」
と笑った。
その時の彼女の口癖、「佑之介さんが、出世払いしてくれるから」が、こんな形で絶たれるとは、誰も思って居なかっただろう。積み木のくみ上げ方を間違えたのだ。
親への借金、未来の収入を見込んで買った様々な雑多な物達の為の借金、金が無ければ付き合えない人々との絶交。それに、手元に金があるが故の、生命の安心感。
それらを叩き潰すようにまた、壁に物を投げつける音が聞こえる。私にはそれが、積み上げたジェンガを崩すときの妙に心地よい音に聞こえた。目を閉じ、味わう。

…さて。
私は、机の上の便箋を目に捉え、ペンを手に取った。軽く握る。震えない。
字を書く事が出来るようになったのは、大きな進歩だ。いやむしろ、私の体が、私に字を書く事を許した、というべきだろうか。
かつては誰の為か分からない書類の作成に使っていたペンを、今は自分の思う事、感じた事を書きとめる為だけに使える。世の中にいくらか贅沢の方法はあるだろうが、こういう手段での贅沢は、害もリスクもなくて穏やかだ。
私が今書き留めたいと思ったのは、最近見る夢についてだ。
これまでの私は、夢には無頓着だった。眠れないときの方が多かったし、眠るための薬は私を深い泥のように寝付かせたからだ。
私は、便箋の一行目にこう書いた。
"最近見る、悪魔の夢"
はて、何かファンタジックすぎるだろうか。しかし実際、そうなのだ。私は首を捻り、左側の壁に寄せられたベッドや、右の壁の本棚、部屋の中央の小さなテーブル、壁にかけられた海外の美しい島の写真、天井の不思議な模様を見た。窓を開けようか、緑の香りの風が吹き込むだろう。
私は少し考え、2行目にこう書いた。
"小さな少女の出てくる夢である"
事実だ。ただの夢ではない。何度も、何度も、同じ夢を見る。
ここ数日、1週間。毎日、私は夢の中で小さな少女と会っている。見覚えはない。
ペンを、かりかりと走らせた。
"あまりにも奇妙である為、ここに記しておきたい"
何せ、こうして覚書の文章を纏めておけば、いつか夢を解析する専門家などに見せて説明し、世に広く知らせる事が出来るかもしれない。別段、世に知らせる事が目的ではないが、きっと夢の研究や人の精神の研究分野に役立つだろう。特に私は、心の負荷から来る奇妙な病気を患ったものだし、他の人よりは参考になるだろう。
"以下は、夢の中で毎度起こる出来事を忠実に描く"
私は、目を閉じた。目を閉じたままでは手を動かして文章は書けないが、夢の中の出来事を思い出そうとするならば、目を閉じる事が有効である。

私は夢の中で、どこか部屋の中にいる。これは、かつて泊まったホテルの一室だったり、図書館の自習室だったりする。どちらにしても、周りに人は居ない。私1人だけが、部屋に居て、入り口のドアに背を向けて簡素な椅子に座っている。
そうすると、ドアが開く。私にはそれが分かっている。開くのだ。そしてそこに居る人物が、私を訪ねてやってきた事も知っている。
しかし、どんな人物かは知らない。私は振り返る。
するとそこには、小さな女の子が居る。服装ははっきり思い出せないが、大体6歳か7歳ぐらいで、髪はあまり長くなく、誰かの顔に似ている。手には銀色の包丁を持っていて、それ自体が光源であるかのようにきらきらと光っている。夢の中の私はその包丁を綺麗だと思う。
女の子が部屋に入り、その後、女の子の後ろから黒猫が入ってくる。太っていない、スマートな猫。目がぎらぎら光っていて、忍び足。猫が入ると、ドアがばたんと閉まる。
私は体を捻って女の子と目線をあわせている。部屋中がぐらぐらと暑くなる。緋色だった壁の色が、どす黒くなったり、青くなったり、不確かになる。部屋の空気がどんよりと沈み、その中で銀色の包丁だけがきらきらしている。
やがて女の子は、顔を上げて私に尋ねる。
「悪魔は誰?」
夢の中の私はその答えを半分知っているようで知らない。知っていて思い出せないのか、そもそも知らないのかわからない。ただ、知っているかもしれないので、私は答えようと口を開く。包丁が光る。

目が覚める。

かりかり。インクが淀みなく文字を描く。
"と、このような夢を毎日見るのである。状況が、ホテルの部屋であったり、図書館の自習室であったりするが、密室で、私と少女がおり、彼女から一言の問いかけをされる、本筋は変わりない"
ペンを置いた。からり、と軽い音がした。私は乾いた指を曲げ伸ばしながら、ううんと背伸びをした。椅子がぎしぎしと軋む。日光は少し角度を変えている。外の道を歩く誰かの足音が聞こえる。とろり、とした眠気がやってくる。
「…これだけで疲れるとは」
机に突っ伏して眠ってしまいたい気分だった。置時計を見る。9時を少し過ぎた。昼間まで寝てしまうという手もあるが、何かしていたい。何かしていないと、申し訳ない気持ちがやってきて私を足から押しつぶしてしまう。
にゃぁ、と、聞こえた。
私は顔を上げた。立ち上がって、少し前に乗り出し、窓の外を見る。
狭い道の端を、黒猫が歩いていた。てってって、とテンポよく、裏の静かな公園へ歩いている。黒い姿が黒い影を作り、それが無機質に移動していく。
公園か。少し、散歩など出来るだろうか。
私は椅子に戻り、書いた文章を読み直した。冒頭の一文に横線を2本書いて訂正し、隣に、「おかしな夢を見た事」と書いて直した。それ以外にも、文の繋がりや、てにをはを直し、満足したところで紙を畳み、白い封筒に入れた。机の引き出しに入れ、ペンも同様に入れる。がたん、と引き出しを元に戻し、私はゆっくりと立ち上がった。
足が少し震える。しかし、歩行は出来る。だいぶ、回復したのだ。

廊下に出たとき、すすり泣くような声が聞こえた。
「あんたのせいよぉ」
と聞き取れたが、私は何も言わずに靴を履き、黙って外へ出た。がちゃり、ばたん、とドアを閉めた。

晴れ晴れとした空気だった。私は裏の公園へ向けて狭い道を歩きながら、夢の中の問いについて考えた。
もちろん、答えを出したところで何も進展のないことだろう。或は、夢の中の少女にその答えを伝える事もできるかもしれないが、伝えたところで夢は所詮夢である。何せ、問いに答えを出して喜ばれるのは現実のみの事なのだ。
道は一直線に、公園へ向かっている。人は少ない。壁も路地裏もアスファルトもゴミ箱も花壇の花も、地を這うアリも、みなひっそりとしている。ここの午前中は、まだ動き出していないらしい。
私は木々の間をくぐって公園に入ると、ざらざらした砂のような土を踏み、公園の端の色褪せたベンチに腰掛けた。前日の雨のせいか、少し湿気ている。
公園には、大きな遊具が幾つかと、つつましやかな池がある。深さはそれほどでなく、ところどころに苔がこびりついているものの、汚らしいわけではない。ブランコの近くのゴミ箱の下には煙草の入った古い缶がいくつか落ちていて、公衆トイレは洞窟のように暗い口を開けている。鉄棒は青いペンキが剥がれ、中の鈍い銀色がむき出しになっていた。

正面には、すべり台、砂場、池が見える。その向こうに木々、フェンス、家の垣根。そして、様々な形の屋根が並んでいる。合間に、にょきにょきと生えた黒い電柱。小さな鳥の影が移動し、飛び立ち、また戻ってくる。遠くで、車のエンジンがかかる音。エンジンの高音と、低音。遠ざかる。
大人も子どもも居ない。その痕跡だけが息を潜めている。子供達の叫び声と笑い声の名残が、残響のようにそこにまだある。
私は、目の前の一枚の絵のような景色を眺めながら、また少女の問いについて考え始めた。
悪魔とは誰か。
悪魔に「誰」とはおかしな話だと思う。大抵の人が思い浮かべる悪魔とは、どちらかといえば「生き物」であり「化け物」だ。
黒い獣の体に大きな翼が生えているイメージ。人によっては、巨大なコウモリの翼を思い浮かべるかもしれない。私の想像も、似たり寄ったりだ。詩人でもないし絵が得意でもないので、具体的な事は思い浮かばない。
悪魔とは誰か。
彼女に問いかけられた私は、何かを答えようとしていた。分からないなりに、何かを。答えるところで、目が覚める。素人考えだが、私の中で答えが用意されていないからではないだろうか。
私は唸る。
緑の葉から、重さに耐えかねて雨の雫が落ちる。きらりと煌き、地面の泥となる。それを踏んで歩く、黒猫が1匹。
私は顔を上げた。
スマートな黒猫が、オレンジ色のすべり台の上に居る。青空と木々と屋根を背景に、凛々しく座ってこちらを見ている。風がぴたりと止んで、私と猫だけの空間になる。
「悪魔とはなんだろうな」
私は猫に問いかけた。

"何も獣ばかりが悪魔ではないよ。人にも悪魔は居るだろうに"

私は、片手をこめかみにやった。周囲の音が切り離される。耳の奥が、ぼぅっと鳴り出す。
「悪魔と呼びたくなる人の事か」
目を閉じれば、そんな人間たちの顔などいくらでも浮かんでくる。特に、私がこの病気になってから、人々は悪魔としての顔を私に躊躇い無くみせるようになった。

"それは誰だろう、心当たりはどうなのだい"

猫の目が瞬いた。不思議と逃げもせず、すべり台の上からじっと私を見ている。私はいくつか指を立てた。
私の実の両親は、私の病気を知ったとき、欠陥品だと言った。世間に申し訳のない、酷い子どもだと言った。よくも裏切ったな、と歯軋りして電話を切った。
妻の兄は、ねっとりした笑みを浮かべた顔で、妻に何かをねだっては、彼女の持つじゃらじゃらした光り物の一部を貰って帰っている。私の病気を妻が涙ながらに伝えてからは、彼が家に訪れるたび、妻の顔に痣が増えている。妻は私に何も言わないし、とても大事にしていた高価な指輪が彼女の指から消えている理由を、排水溝に落とした、と告げた。
出世払いだ、出世払いだ、と神輿を担ぐような調子で言っていた妻の両親から、最近は矢のような勢いで電話がかかってくる。電話に出ている妻の様子を察すると、最初は私の身体や妻の様子を気遣う挨拶、次に家のローンについての話がされるらしい。妻が電話線のコードを千切って以来、家は静かになったが、郵便受けに届く妻の実家からの手紙は、滝のような勢いに増えた。

「誰が悪魔か?」
私は呟いた。猫は答えを知っている様子で尻尾を一振りさせた。
「誰だろうな」
選択肢が多すぎる問いかけだ。

涼しげな風が吹いた。その風の簡素さ、そして誰もいない公園の寂しさが突然肌に染みてきた私は、立ち上がって浅い池まで歩いて行った。
池の表面は濁ってはいない。青と緑の混じった水に、私の顔が映っている。私はこんな顔だったか。そうだったか。思い出すと同時に、何か昔の光景が1つ記憶の中に鮮明に蘇ってくるような気がした。しかし、それも思い過ごしで、やはり思い出は記憶の残骸の1つでしかなかった。
私はどんな風に公園で遊んでいただろう。昔は、こんな風に寂しくて無力で一人ぼっちな気持ちを、どう乗り越えていただろう。
久々に、胃の中を空っぽにしたい衝動が廻ってきた。必死で押さえ込みながら、しゃがむ。泥と水と苔の混じった匂いがする。こみあげる。背後の土の上で、カラスが、けけっと鳴いた。
吐き戻しの衝動を抑えて立ち上がり、振り返ってみると、すべり台にもう猫は居なかった。私は目線を落とし、公園の出口から家へ戻る道へ出た。道の途中、潰された虫の死体を避けた。ぴくぴく動く足の1本が、私に向けられていた。

喉の渇きを覚えながら、私は家の前に立っていた。足が少し震える。手はまだ震えない。赤い郵便受けをちらりと見る。様々な手続きのための書類が、詰め込めるだけ詰め込んである。くたりと地面に向けて垂れている。どれも取る気になれない。読む気にもなれない。
暗い玄関に入り、扉をばたんと閉めた。奥のキッチンの方から、悲鳴のような泣き声が聞こえる。
「痛い、痛いよ、兄さん」
「俺はな、お前の旦那の金を見込んで、もう契約したんだよ」
「知らないわ、あの人がこんな事になるなんて思ってなかったのよ。まだ今月、1回も友達と出かけてないのよ、あたし」
「お前のそんな話を聞きに来たわけじゃ――」
「ねえ、あたし、どうやってこれからお買い物すればいいの? お金、もうないの」
「一円も無いなんて事無いだろ。どっか探せば――」
「ああ、もう、いや」

暗い玄関に、私の影が落ちる。私は、音を立てないようにして玄関横の階段を上った。この議論の行き着く先は知っている。
「ああ、もう、せめて事故なんかですっぱり死んでくれていたら」
私の命の価値が晒される瞬間の話だ。私は唇を噛み、震える手を押さえつけながら一段一段階段を上る。暗い廊下を静かに歩き、自分の部屋の扉を開ける。

真っ直ぐ、窓の光に導かれるように机に進み、椅子に座る。引き出しを開け、ペンと封筒を取り出す。
かさりと封筒を開いて、中から便箋を引っ張り出した。机の上に広げ、最後の行をもう1度読み直す。

"と、このような夢を毎日見るのである。状況が、ホテルの部屋であったり、図書館の自習室であったりするが、密室で、私と少女がおり、彼女から一言の問いかけをされる、本筋は変わりない"

最後の行にペン先を置く。黒いインクが滲む。

"追記 色々考えてみて、悪魔とは誰か、について答えを出す事が出来た。悪魔とは、人の事とも言える。抽象的に、悪魔のような人だ、と思う人の事である。私が思うにそれは"

がちゃり、と背後でドアの開く音がした。無音の空間に、その音が響いた。
私はペンを持って椅子に座ったまま、身を捻って振り返った。部屋の空気がざわついた。

小さな女の子ではなかった。
銀色の凶器を持った、まさしく悪魔の姿があった。
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