雪中の者たち



 喫茶ファミリアの窓から見える外の景色が昼から夜にゆっくりと切り替わり、随分と時間が経った。雪はまだ降り止みそうに無い。冬の風物詩といえるそれは、ただ事務的に、上から下へもくもくと積もっている。
店内は、眠気を誘うようなジャズピアノが流れている以外はひっそりとしていて、空気自体がほんわりと湯気を含み、どことなくアンニュイな、物憂げな夜のひと時の風景となっている。

「ファミリア」は、乾いた色のコンクリートの建物と建物に挟まれた路地裏の一角にひっそりと住み着いている。基本のメニューはマスターこだわりの珈琲や紅茶などだが、夜7時以降は時折、アマチュアのジャズミュージシャンがやってきて、店の一角でしっとりとした年代ものの曲を奏でることがあった。
その為、常連のお客たちの中でも、ファミリアを喫茶店と捉えている人と、ジャズバーとして捉えている人の二種類が存在している。
客層は、数十年前のモノクロの映画から出てきたようなジャズ通の男性や、金や銀の貴金属が目立つ老夫婦、たまに、近くの美大に通う所謂「レトロ好き」の若い女性たちが、一眼レフカメラやスクラップブックなどを持って、いそいそとやってくるばかりである。
犬は飼い主に似るというが、この店の趣も雰囲気も集まる客の嗜好も、マスターの津野田(つのだ)に似て、妙に癖のある偏屈な変わり者ばかりのようだ。

 1月末の某日、稀に見る大雪の晩のファミリア店内には、2人の人間――マスターの津野田と、ウエイトレスをしている16歳の高校生、舘山 桜(たてやま さくら)だけが居た。客は居ない様子だ。
「はい、はい…うん、分かった。…大丈夫、寒くないよ、全然…店の中だし…うん…。…それじゃ、ありがとう。うん、…はい…」
小学生ぐらいの子どもなら楽々と埋まってしまうような大雪の日に、除雪車も通れない路地裏にお茶を楽しみに来る客など、よほどの物好きしかいない。それでも店を開けているのは津野田のこだわりのようなものでもあったが、困ったのはアルバイトウエイトレスの桜の方である。
津野田の学生時代の後輩タテヤマの娘、桜は、高校に通いながら、この店で「お手伝い」という名目でアルバイトをしている。彼女が通う堅道高校からこのファミリアまでは、信号を2つ渡って徒歩10分。本日午後5時頃に高校を出て、ファミリアに来たまではよかったのだが、それから2時間のうちに雪が本腰をいれて降り始めてしまった。あっという間に電車は止まり、車道は渋滞し、自宅から車で30分かかる道のりを電車で通学していた桜は、立ち往生するしかなくなってしまったのである。
「どうだって?」
津野田が、親との電話を切った桜の方を向いて言った。オレンジの照明に照らされたごつごつした顔は陰影が深く、手持ち無沙汰にテーブルを拭く手は、水仕事で鍛えられ、よくしなる枝のようだ。
桜は答えた。
「道路、完全に止まっちゃってるそうです。…家出た時は40分ぐらいって言ってたけど、今は何分になるか分からないって。それでも電車よりは早く着くだろう、って」
津野田は苦笑した。
「まあ、道路ならあと何時間かかってでも、電車のように運休することはないだろうからねぇ」
「そんなに酷くなるでしょうか?」
「なるでしょう」津野田はさらりとそう言って、ふきんを畳みながら顔をあげ、外を窺った。「この1週間、ずっと雪の予報だったもの。…まあ、こんなに深くなるとは思わなかったけれど、ひょっとするとこれは序の口…かもしれないねぇ」
津野田の言葉を聞いて、桜は盛大にため息を吐いた。脱力して深々と腰掛けると、年代ものの木製の椅子は、ぎぃいっと苦しそうに軋んだ。
「帰るの、夜中になるでしょうか」
「なる可能性は高いよ、気の毒なことだ」
でもしょうがないことでもあるね。
そう言って津野田はカウンターの奥に入り、テーブルを拭いたふきんをじゃぶじゃぶと洗った。ぱん、と軽くはたいて、奥の黒いハンガーにかける。

 津野田曰く、ファミリアの内装は開店当時のままらしい。壁は白塗り、柱には木材。床も、柔らかい音を立てる木材を使用している。
店のあらゆるところに――壁や、飾り棚の中や、形だけの暖炉の上に――写真が飾られている。どれも、湖畔や林や橋などがモチーフで、全て津野田が自分で撮ったものだという。カウンターの奥には、津野田がもう使わなくなった骨董品のような黒いカメラも置いてある。
一方の壁際には本棚があり、津野田が趣味で集めた古本が並んでいた。教科書に載っているような近代文学から、10年ほど前に流行した推理小説もあり、時折、文字が擦り切れてどういう題名か分からない背表紙の本もある。どれも地味で、あまり自己主張をしない、謙虚な本ばかりだった。
本棚の右側面には、黒い紐を通した古くて分厚いノートがかけられてある。拍子には手書きで、「貸し出し帳 喫茶ファミリア」とある。この店に集まる、読書家の為のものである。
本棚、写真、写真たて、壁に一枚だけ飾られた個性豊かな絵、カップ、カメラ、そのどれもが、年季の入ったものだ。しかし、使い古されくたびれた、という表現は合わない。どの品も、長い時間、長い年月のうちに、ほかの品や店の雰囲気、人々との調和を意識し1つの揺ぎ無い均整を作り上げていて、それがこの店に漂う、別世界のような静けさの素になっているのだった。

桜の電話が終わってから、少し時間が経った。
「桜ちゃん、紅茶飲む?」
「あ、いいですよ、そんな」
「僕が飲むから、ついでにね」
「あれ、マスター…。いつもは珈琲じゃないですか」
「ううん…まあ、たまにはね」
「そうなんですか」
それじゃあお願いします、と言って、桜はテーブル席の椅子から立ち上がり、カウンター席に移動した。背もたれのないタイプのワイン色の椅子をくるりと回転させて、座ったまま店内を見回す。
テーブルが4つ、椅子が1つのテーブルに4脚ずつ。細々と、ひしめき合うように置かれている。その割に、客同士がひしめき合うほど混雑することは、ない。
不思議なことにこの店では、どんなに団体さんがやってきても、常連さんが重なっても、必ずテーブルが1つか2つぐらいは空席になる程度の混みあいにしかならない。無論、日時を決めて張り紙を掲示してジャズライブを行うときには満員御礼が常だが、日常仕事をしていて御礼を出す事はないのだ。
そんな店の様子を見ていると、時々桜は、客同士がそれぞれ時間を計算し合い、別の客或は団体との接触を牽制しながらの店に来ているのではないか、とすら思う。
「ま、そんなわけないけど」
「え、なぁに?」
「え、なんでもないです」
桜は顔の前で手をひらひらと振り、津野田がさくさくと紅茶を淹れている様に目をやった。
小鍋にはられたお湯の中で、細かい茶葉がざわざわと躍っている。適量の砂糖。こぼこぼという曇った音。かちり、火を消す。小鍋の柄を握る手のごつごつした甲に浮かび上がる深い筋。
取り出されたティーカップ。青い唐草模様。底には西洋の白い花。ゆらゆらと揺れる暖かい茶色で見えなくなっていく。唐草模様のすぐ下まで、満たされる。同じ模様の皿に置かれる。かち、と磁器が触れ合う音。流れているジャズの、ベースのソロが始まる。

「ありがとう、マスター」
「代金は給料から引いておこうかな」
「えっ」
「嘘だよ、多分ね」

ティーカップの淵越しに、疑いの目を向ける桜。津野田は涼しい顔で、自分用のマグカップにさらに一さじ砂糖を追加して、鍋から紅茶を注ぐ。湯気がまっすぐ昇る。空気が動き、体感温度が上がる。ベースのソロが終わり、スキップする少女のような軽快なピアノが後を継ぐ。追って、サックスが続いた。

「こんなに雪が積もること、今までないですよね」
「どうかなぁ、…そりゃ最近は無かったけれど…」ずず、ずずず。「20年とか30年振り返れば、何回かはあったよ」
「大昔じゃないですか」
「20年は大昔じゃないよ、ちょっと前だよ」
「ちょっと前っていうのは先週とか先々週とかじゃないですか?」
桜がカップを置くのと、津野田がマグカップを両手で抱いたままカウンターの中の簡素な椅子に腰掛けるのが、ほぼ同時だった。
桜は言った。
「ちょっと妥協して、先月とか」
「そんなものだろうか」津野田は顎に手をやった。
「だってマスターの理論でいくと、あたしが生まれたのでさえちょっと前ってことになりますもん」
「まあそう言われると…昔になるのか。…でもまあ…」ずず、ず。「僕の中では、桜ちゃんはつい先日までランドセル背負っていたけれどね」
津野田はわびしそうに、ふぅとため息を吐いた。陰影の深い顔の暗い目の向こうに、10年以上前の少女と、それを額縁のように彩る風景が映っているようだった。
「その前は舘山の結婚か。…一気に、時間を感じたものだね…」
「でもマスター、マスターだってお子さん居るじゃないですか。しかもあたしより3つ年上の」
「4つだよ」津野田は訂正した。「こんな事を言ってしまうとまるで頭が気の毒だが、僕の中で時間は一直線でなく、まるで…ダイジェストな映像作品なんだ」
津野田の指先が、空中にシアターの形を描いた。
「記憶が無いなんてわけじゃない。…けれど、ある日突然結婚して、その過程はなんだかんだあって…そしてある日、柔らかい布にくるまれた息子を抱いていた気がする。…そしてまたなんやかんや、小学校に入学、なんやかんや、卒業、とね…。…あっという間、とかじゃないんだ。なんだろうな…」
ずず、ずずず。…ことん。
津野田は空になったマグカップをシンクの中に置き、手早く洗いながら夢想を続けた。
「そうだね、起こってきた物事に実感がない、という奴かな。…他の誰もがこうだといいんだがね」
きゅっ、と蛇口を捻る。水滴がやわい照明の光を浴びながら、シンクの周りにぱたぱた落ちた。
「そうじゃなきゃ、私だけが時間と時間の間に取り残されて居るみたいじゃないか」
「…高校生には理解できません」
「大人でも子どもでもないからだろうね。周囲の大人は君たちの年頃の人間に、大人であれ、しかし子どもらしくいろ、と両方を要求するだろう。あれはずるいものだね」
「ううん…」
桜は最後の一口を口に含んだ。中々喉に通さないまま、今津野田が言ったような大人が身の回りにいるかを考える。暗い脳裏に、2,3人の候補者が浮かぶ。どうだろう、そうだろうか。
ごくり、喉が上下。
「場合によりけりですね」
「ま、そういう対応が1番大人だ」
話の落としどころを捏造して、津野田はカウンターから出てきた。桜の横を通り過ぎ、何の前触れもなく、店の扉を開ける。
びゅお、からんからん。
桜は、突発的な冷気を首筋に感じ、ひゃっと声をあげた。細い腕で自分を抱き、ぶるりと震えながら、少し恨めしげに津野田を見る。
一方、津野田はがちゃりと扉を閉め、振り返って桜を見た。
「表通りまで歩いていけるかな、どうだろうね」
「そんなに積もってますか」
「そうだねぇ」津野田は曖昧に頷いた。「雪かきが面倒だ」

それから、何も無い1時間が経った。
途中、3回目のリピートに入ったCDを、津野田が別のCDに取り替えた。しっとりした雰囲気のジャズから、ボサノバ風味のジャズへ。とはいっても、店の雰囲気はあまり変わらない。結局、染み付いた空気の流れは留まったままだ。
桜の親からの連絡はなく、テレビを小さい音量でつければ、雪による渋滞、交通網の麻痺についての情報がせわしなくながれこみ、しんとした静けさを阻害する。
必要最低限の情報――雪はまだまだ積もるし、皆がんばっているけど交通網はまだ回復の見込みなし――を手に入れると、津野田はテレビを消した。雪に苦しむ人々の光景が、黒いのっぺらぼうに切り替わる。

ふと、桜が言った。
「そういえばマスター、…なんでうちって、ジャズしかかけないんですか?」
「雰囲気あうでしょ?」
「…まあ…」辺りを見回す。調和のとれた昭和の空気。「…そうですね」
津野田が唐突にこう言った。
「僕の夢はね、いずれこの店にマフィアが来ることなんだよ」
「え?」
何かを聞き間違えただろうか、という表情の桜。
「マフィアですか?」
「そうだよ、マフィアだよ。チャイニーズじゃないよ、イタリアンだよ」
「はあ…何故ですか」
津野田の目はきらきらしていた。彼は、拳を握りかねない様子で語った。
「桜ちゃんは知らないだろうけど、モノクロの映画なんかによくあるんだ。マフィアが取引をしたり、敵組織の話をしたりする場面。僕は、ああいう場面の背景になっているような店を持ちたいんだよ」
「…へぇ」
だから津野田は、週刊誌などの雑誌を俗物と称して、置かないようにしているのか…。と、桜は納得した。そんな桜の表情にお構いなく、津野田は若返った調子で、少年のように眼を輝かせて話を続ける。
「その為には、珈琲にバーボンにジャズが欠かせないよね。いいなぁ、いつかマフィアが来たくなる店にしたいものだねぇ…。アイコンタクトで、FBIが表に到着したことを知らせたりね…ふっふ」
夢溢れる表情の津野田に、桜はため息を吐いた。
「私よく知りませんけど、そういう店、大概銃撃に合うと思いますよ」
「外でやってほしいものだね」

 暇で暇で退屈を持て余した人間は、詰まるところ体力を残すため、無気力になるらしい。本来の帰宅時間から1時間半を越えた時点で、桜はカウンターに突っ伏して半分眠っているような状態だった。
津野田の方は10分ほど前から、カウンターの奥の席に座って煙草を吸っている。普段、客の前ではそれなりに自制している彼だが、実は3度の飯が煙草なのではないかというほどの煙愛好家である。
「むしろ今までよく我慢してたな…」
突っ伏したまま津野田の様子を見ていた桜は、そんな事をぼんやりと考えた。うつらうつらした店内の景色に、津野田が吐き出す煙草の煙が揺れて混じる。見ている映像が光の集合体になってより一層ゆらゆらとざわめき、それをボサノバの低音が心地よく揺らしていく。

「こうしていると退屈じゃないですか」
「そうだね」
「何が起こるか分からないから、携帯の充電を温存しておきたいし…」
「懸命な考えだね」
すー、ふぅっ。煙が揺らめく。吐かれた煙は、カウンターに置いてある写真立ての周りをゆっくりと旋回した。
「…トランプでもあったら、1人ソリティアでもしてるんですけど」
「生憎、店には無いねぇ。…家の方に探しに行ってみようか」
億劫そうな顔で、津野田は店の奥の扉の方を見た。そこは物置であり、津野田とその家族が住む2階への階段があった。
「…ううん…。マスター、何か面白い話ないですか? "ちょっと前"のことでいいんで」
「僕に面白さを求めちゃいけないよ」
そうは言いながらも、津野田の言葉にはどこか含み笑いがある。
「でも、竹中さんたちと話すとき、マスターはいつだってジョーゼツじゃないですか」
桜は突っ伏している体勢から起き上がった。
「あれには、噺家の才能でもあるんじゃないかと思いました」
「ジョーゼツ、ジョーゼツねぇ…」すー、ぷかぁ。「…あれはほら、町内会でのあの人の酔っ払ったときの傑作話とか? …そういうネタがあるからだね」
「私、寝ちゃいそうなんです。寒い中で寝たら凍死しちゃいますよ」
「ストーブの火、強める?」
「ものの例えです。…マスター渾身のお話、聞きたいなぁ」
「…そうだねぇ」
ぎゅっと煙草を灰皿に押し付け、津野田は暫く、壁にかけられた絵を見ていた。桜もつられて、背後の絵を見る。
いわゆるシュールレアリスムという奴だろうか。茶色の額縁で囲われた絵の中では、1人の少年が、何もない空間に1人佇んでいる。彼の廻りには、電信柱や野良犬、無機質な青いゴミ箱などが浮いているが、少年との距離感は遠く、また、浮いているはずなのに影もない。簡素だが質素でなく、印象的だがさらりと流れる、不思議な絵だった。
普段からちょくちょく目にしていた絵だったが、桜にとってはあまり興味がなく、詳細を尋ねたこともなかった。
津野田が言った。
「…あの絵、誰が描いたかとか知ってる?」
「いいえ。随分前からありますよね」
「うん。あれは、麻庭修二(あさにわ しゅうじ)という画家が描いた絵なんだけどね。結構最近の人なんだけど、若いうちに死んじゃった人だよ。半年だったかそれぐらい前に、そこの堅道美術館で、個展とかも開かれていたみたいなんだけれど」
「堅道美術館って、あの…どっかの国のなんとか神殿みたいな建物ですか?」
津野田は桜の方を見た。
「パルテノン神殿?」
「そうそう、そんな感じの」
「ううん…。…パルテノン神殿かどうかは置いておいて、…まあ、麻庭修二っていう人の作品なんだけれどね。…あの絵、実はレプリカじゃなくて本物なんだよね」
「えっ」
桜は、文字通り胸がどきどきするのを感じた。美術に疎い者からすれば、「本物っておいくら?」が先に出てくるのもしょうがない。
「まあそもそもなんで、アメリカやイタリアの美術館に作品が展示されている麻庭修二の個展が、こんな町で開かれたかっていうとさ、彼の生まれが、この堅道だからなんだよ」
「あー…」
桜の内側で、ぴんと閃くものがあった。
「そういえば、小学校の頃に自分達の街を調べる授業ってあったじゃないですか」
「あるね」
「それで、この街出身の有名な人の中に、麻庭修二ってあったかもしれない」
津野田は満足げに頷いた。
「だろ? …美術に興味の無い人にとっては、有名らしい人、程度の認識だろうけどねぇ」
かち、しゅぼっ。じじ、と、津野田の手元の煙草に赤が灯る。
ふーっと煙を一直線に吐き出し、津野田は続けた。
「で、堅道大学の教授にね、その麻庭の息子が居るわけでね。…その人と僕はちょっと前に…まあ、20年だか30年前に、学校で同じ写真サークルのメンバーだったわけさ。ハイキングやら山登りしながら、写真を撮っていく、旅行サークルを兼ねたサークルね。…で、この店を開くときに、彼が管理していた麻庭修二の作品を一品、もらったってわけ。…もちろん、きちんと清書したものじゃないけどね」
津野田はそう言いながら煙草の灰を落とし、もう1度壁の絵を指した。
「ほら、その絵、ラフでしょ? …鉛筆書きのままってことだけど」
「そうですね」桜は頷いた。
「麻庭の息子曰く、これは麻庭修二がスケッチブックなんかに描いた落書きらしいんだよね。…その絵なんて、表面は綺麗な絵だけど、裏返すと広告だし」
「えっ、そうなんですか。…ってマスター…」
桜は視線を津野田に向けた。津野田はやはり涼しい顔で、すー、ぷはぁを繰り返している。
「ほんとなんですか? すごくないですか?」
「いや、嘘だよ」
「えぇっ」
ふっふ、と不適に笑い、津野田は近くの椅子にすとんと腰掛けた。悪びれる様子もなく、20分前と同じ態度で煙草を吸い続ける。
「どうだろうね、いくらかは本当かもしれないけれどね」
そんな津野田の態度に、桜は「うぅ」と唸った。そして必死に頭を回転させ、今の津野田の話の、どこが嘘でどこが本当かを考え始める。
一方津野田は、そんな桜の様子など気にせず、壁の絵を眺めながらぼんやりとこう言った。
「麻庭修二は、ただのシュール画家じゃないよね。…あの子どもの、置いてけぼりにされた寂しい感じ…。…人の心の、あまり暴かれたくない部分を暴くことが、彼は本当に得意だ」
個展が開かれたところまでは本当だろうか、などと考えていた桜は、その発言を聞いて首を傾げた。少々、引っかかることがあったからだ。
「私はあれ、おいてけぼりっていうよりは…。…歩き出してる、イメージなんですけど」
はて、と津野田の顔が桜へ向く。灰色の煙に紛れて、彼の姿は少しもやがかかって見える。
「若さって奴かな」
「なんでもそれで片付けないでください」
津野田は言った。
「けれど、何か孤独を感じることに変わりはないだろう」
「ううん、そうかなぁ…」
あまりそうは思わないんだけど、という言葉を飲み込んで、桜は両手を膝の上に置いた。
「それで、他にないんですか?」
「何が?」
「なんか面白い話。あ、嘘はなしで」
「…嘘はなしか…。…退屈が紛れる話じゃないと駄目だろう? …どうかなぁ…」
灰皿を片付け、津野田は立ち上がった。そして、カウンター中央の戸棚から珈琲フィルターを一枚取り出し、どこか虚空を見つめたまま、指先で端を畳む。
「…そうだね、花垣峠(はながきとうげ)って知ってるかな。…あっちの県は、海水浴場とかの方が有名かもしれないけれど」
「ううん…」記憶をひねり出す。「夏休みに友達が行ったとか行かないとか…そんなぐらいしか」
「まあその程度の認識で結構」
津野田は頷き、ぽん、と音を立てて、それなりに大きい缶の蓋を開けた。軽く珈琲の香りが漂う。
「あそこはね、山桜とか崖とか湖とか、あと、珍しい鳥に、広大な花畑なんかもあってね。写真サークルに入っていた、ってさっき言ったけど、そのサークルでよく行く場所だったんだよ」
「ええ」
「あそこは、人の住む町からは離れているけれど、山っていうほど高さもない場所だからね。…雪景色が綺麗だって雑誌で紹介されていたこともあって、ある冬に、サークルのメンバーで撮影に行ったんだ」
「危なくないですか?」
と、過去の出来事に警告するような表情の桜。
「どうかな、慣れた場所だし、熊は居ないだろうし、季節的にはばっちりだったんだけどね。…まあ確かに、危なかったかもしれないな」
津野田は、くしゅんくしゅんと湯気を上げているヤカンの取っ手に手をかけた。
「で、そのサークルっていうのは、その時点で確か…20人ちょっと、幽霊部員を含めれば25,26人は居たのかな。そういう纏まりだったんだが、…そのハイキングに参加したのは、確か、10人…居なかったぐらいだったと思う。正確には、思い出せないんだな。途中参加の奴なんかもいたしねぇ」
津野田がそう言いながらお湯を注ぐと、それだけで喉が鳴る様な珈琲の香りが、ふわっと広がった。大風が吹いたのか、窓ががたがた、と音を立てる。
「その中に1人ねぇ、木下っていうね、僕とどうしたって仲良くなれない奴がいたんだよ。あれは、気性の問題だな。言葉で解決しないというか、向き合うことも愚かしいというか、…合わない、って奴だな。」
「うん、居ますよね、そういうの」桜も頷く。
「ああ。今の自分でも想像できないぐらい、そいつとは仲が悪かった。向こうだって同じだったろう。お互いに歩み寄ろうなんて姿勢、なかったからねぇ…。…で、そいつも一緒に行くことになって、峠について…」
フィルターを通して、ぽたぽた、と珈琲が溜まっていき、流れが途切れる。それを待って、津野田は再びヤカンの湯を注いだ。
「それぞれ、2時間後に入り口に集合ってことにして、ばらばらに行動したんだ。2,3人ぐらいの纏まりで歩く奴もいたし、1人で歩く奴も居た。僕は適当にぶらぶらしながら、枯れ木に、白い空、足跡、木のくぼみや、冷めた林なんかを撮影していた」
鈍い音。津野田はヤカンをコンロに戻し、少し手をぶらぶらさせた。
「林の中に入った。雪の明るさで地面が明るくて、でも日光はあまり差し込まない、薄暗い林だった。…すると、先の方に、大きな枯れ木があって、その下に、木下が居た。僕は、あ、いやだな、と思った。…向こうも、僕に気づいたんだろうね。ふいっと無視して、違う場所に歩き出そうとした。あまり誰も入らない林の中だったからね。…木の幹がね、黒くて…それに囲まれていると、なんだかそれが全部こちらを見ている人のように感じられたけれど…」
フィルターを捨て、津野田は小鍋に入れた牛乳をかき回しながら温めた。かしゅかしゅ、かしゅかしゅ、と乾いた音が続く。
「僕も、回れ右して、来た道を戻った。仲間からだいぶ離れてしまった。戻って、人と話がしたい、ここは寂しい場所だ、と思った」
話に引き込まれていた桜の脳裏に、麻庭修二のラフ画の男の子が過ぎった。振り返ってもう1度あの絵を見たい衝動に駆られたが、ぐっと堪え、津野田の話を聞き続けた。
「しんとしていた。戻ろうとして、何十秒か歩いた。雪に足がとられて、何十メートルしか進まなかったかもしれない。カラスの声が聞こえた。遠く高い木々のうえで、鳴いていた。…するとね、…ずしん、…どすん、と音が聞こえた。どーん、だったかもしれない」
かしゅ。かき回していた手をとめ、津野田は桜に背を向けた。食器棚を開き、カップを手に取る。
「人の悲鳴が聞こえた。背後からだった。木下のものだと分かった。…僕は、林の奥まったところにちょっとした池があって、…夏には、蓮の花まがいのものが咲いていたことを思い出した。…そうだ、こう雪が積もっていては、安全な陸地がどこまであるのか分からないだろうな、と思った」
皿とカップの順番に、2組取り出す。津野田が動くたび、彼のワイシャツの肩甲骨の部分がぐねぐね動く。がたがた、と窓が鳴った。ひゅう、ひゅう、と脅すような風が吹いている。
「凍っているだろうな、とも思った。それなりに深い池だったことも思い出した。鈍いけれど、ばしゃばしゃ、という水音も聞こえた。人の、唸り声のような声も聞こえた。やはり、木下だろうな、と思った」
食器棚の扉を閉め、津野田はカウンターに向き直った。片方のカップに、珈琲をブラックのまま注いだ。静かに、なみなみと注いだ。
津野田は言った。
「僕はそのまま、歩き続けた。仲間達のところへ。…何も言わなかった。そして何も言わないまま、峠に入ってから2時間後、入り口で待ち合わせた。途中参加のもの、一時間で帰ったもの、それぞればらばらで、入った人数と出た人数が違うことを、誰も気に留めなかった」
津野田は、別のカップに、温めた牛乳と珈琲を入れ、混ぜた。適度な砂糖を含め、また混ぜ、それを桜の前にことりと置いた。桜は、津野田から目が離せなかった。
「木下が死んだニュースは、春になって流れた。…峠に行った日の夜から災害のような大雪が降って、それまでの雪に、さらに60センチ、70センチの雪が上乗せさせるように積もった。…木下の死体は、雪が溶けてから、発見された。氷の下で、まるでさっき死んだような肌の色だった、と聞いたよ」
津野田は、カウンターにもたれながら、自分のカップに注いだブラックコーヒーを飲んだ。そして少し顔をしかめながら、
「…少し冷えるね」
と言った。

しんしんと降っていた雪は、いつの間にか豪を伴う吹雪になっていた。隠れ潜むような路地裏も、その害の例外ではない。外には、圧倒的な冬の景色が現実としてそこにあるだろう。

「マスター」
カップの熱さに指を引きつらせながら、桜は言った。
「嘘ですよね?」
空気が張り詰め、沈黙が訪れた。暗い調子のジャズだけがその場に留まる。
「…もちろん、嘘だよ」
津野田はそう言って、ふっふと笑った。
「…マスターは、木下さんを助けられたんじゃないですか? …今、そう思いますか?」
「あの時、僕が引き返して彼を引き上げるか、或は仲間を呼んでいれば、って?」
「はい」桜は頷いた。
「…まあ、そうだったかもしれない。…或は、無駄だったかもしれない。…どうなっていたかは、分からないね。そうなっていたかもしれない未来や過去を考えても、どうにもならないさ。…それに」
津野田は、ふっと息を吐いた。照明に照らされた陰影の濃い笑顔を浮かべる。
「さっき言ったとおり、嘘だしね」
「そうですか」
複雑な気持ちが喉につっかえて、桜は何も言えなかった。それを押し流すつもりで飲んだカフェオレは、それなりに苦く、それなりに甘く、喉を焦がすような味だった。

ぷるるる、と店の電話が鳴った。
桜の親から、到着は20分後になりそうだ、との連絡だった。

「やみませんね」
「そうだねぇ」

津野田が立ち上がり、CDを入れ替えた。桜の知らない、古い映画の曲が流れ始めた。




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