異常な者




 泉 宗次(いずみ そうじ)は、百貨店レモン堂3階の帝國書店に居た。とは言っても、彼の目的は別の階の別の店にあり、此処へはただのお使い――宗次の姉・愛子から、その書店でしか扱っていないニッチ層向けのファッション雑誌を買ってこい、と命令されたのである。
もちろん多忙で高飛車な姉には、わざわざ雑誌一冊の為に買い物に出るのが面倒だという気持ちもあっただろう。しかしそれ以上に彼女には、この売り場にあまり足を運びたくない、理由があるのだ。

「というわけで、麻庭 修二の個展はね、芸術を嗜む人間なら誰もが憧れる伝説の聖地なんだよ」
「そうなんですか、それはきっと姉も喜ぶでしょう」
宗次は必死で作った笑顔を維持しながら、書店売り場の店員杉本を相手に、なんとか話を終わらせたい、とそれだけを願っていた。
とはいえ杉本は別に、積極的な態度で新商品を宗次に売り込んでいるとか、やたらと人懐っこくてお喋りが好きとかそういうわけなのではなく、宗次を通して、姉の愛子と何かしらの接点を取りたいだけなのである。どうも杉本氏は、その分かりやすい好意の寄せ方が姉を遠ざけている要因になっているのだとは気づいていない様子なのだった。
杉本曰く、愛子が最寄りのジャズクラブ「ファミリア」の一角で客相手にピアノを弾いている姿は、何にもまさる芸術なのだという。
それを聞くたび宗次は、「昼間はただの冷え性に悩むOLですけどね」と言ってやりたくなるのを、後一歩のところで我慢しているのだった。

「分かりました、美術の個展ですね、姉に伝えておきます」
半ば無理やりパンフレットを握らされ、宗次は売り場を後にした。そしてそのそれなりに上等な紙を、杉本の目の届かないところまで移動してから適当にカバンの底に詰め込み、本来の目的であるレモン堂4階文房具売り場へと向かった。


 「――で、誘われたよ、何とかって人の個展」
「へぇ、じゃああんた行って来て」
姉は鏡台の前に下着姿で座ったまま、即答した。
「俺が? 何でだよ」
部屋の戸口に立ったまま、宗次は防御の意味で腕を組んだ。勝ち気な姉の前では、断固とした意志を持っていなければすぐに流されてしまう。いつだってそうだったのだ。
しかし、姉は宗次の不服そうな声になど揺るがず、ピンク色の化粧水の瓶を片手に持ったまま、当然のことのようにこう言った。
「今度『ファミリア』で会った時に、あの人きっとその展覧会の話聞くじゃない」
「知らない、行ってない、って言えばいいじゃないか」
宗次は強く返した。
一方姉は、出来の悪い部下に対応する時のように鋭いため息を吐きつつ、
「そんな事したら、永遠と誘われるに決まってるじゃない。適当に話を合わせることもできないし」
と言った。
ぱちゃぱちゃ、と小さな水音。姉は化粧水の瓶を置き、今度は乳白色の瓶を手に取って振り返り、宗次を見た。
「いいから、あんたが行って、詳しいパンフレットでももらってくるの。そしたらあたしは、すごく面白かったけどあの絵はあたし好みじゃないわ、て言う事ができるじゃない」
姉の中では、既に宗次の個展行きは決まっている。
宗次はぐっと堪え、言った。
「でも、それなら、いっそ、――杉本に貴方となんて無理って言えば…」
姉は、感情の薄い瞳で宗次を見た後、また鏡台に戻って自分の顔とのにらめっこを再開し、議論の終わり、と付け加えるように言った。
「ちょっとばかり迷惑でも、大事な鴨なのよ」
そう言って姉は、くえくえ、と鴨だかアヒルだか分からないふざけた鳴きまねをして、自分の顔を取り繕う作業に集中し始めた。宗次が「あの」とか「でも」と声をかけても、もう反応もしない。

ピンク色の絨毯、白いレースのカーテン、積み上げられた有象無象の雑誌、赤い靴が入っていた空箱、銀色の腕時計、オレンジ色で細かく書き込まれた壁のカレンダー。

姉が姉を作るための道具と、その作業場。
宗次はどうしようもないという気持ちに苛まれながら、姉の部屋を後にした。

数日後、宗次は電車で二駅隣の堅道市まで向かった。目的は、例の個展である。
鈍い色の雲が遠慮なく空を覆い、その時々垣間見える日光が、午後からの晴れの到来を告げていた。小雨の降った後のアスファルトを歩き、パンフレットにある通りの道を、街路樹の影に覆われながら進む。
途中何度か横断歩道前で信号待ちをし、曲がり角から急に飛び出してくる子供達に驚き、野良の三毛猫に関心を示して2分ほど時間を浪費し、演奏会と展覧会のポスターが貼ってある緑色の掲示板の前を通り過ぎた。

目的の美術館の表には、常設展示の他にいくつか特別展示が掲示されており、その中に、「麻庭修二展 万世へ轟く1人の芸術家の叫び」と書いてある巨大な看板があった。
パルテノン神殿を軽量化したようなデザインの美術館の中には、休みという事もあってか、老若男女、大量の人が居た。観察してみると、主に初老の男女、30代の親子連れ、美大らしい服装の若い集団、暇そうな老人などだ。この人々の中に入れば、宗次もまた美術にひどく関心のある向上心旺盛な若者の一部になるのだろう。
宗次はそんな表の様子を見て、「子供連れが多いな…」と思い、それを種火にふと大学の課題を始め嫌な事を2つ3つ思い出し、胃袋の端に鉛が引っかかったような気分になった。

実は、宗次はこの世の何よりも子どもが苦手だった。だというのに、あと1年もすれば、周囲に立派だ立派だと持ち上げられながら、教育実習生となる。小学校の教師を選択したのは、自分の思いだったか、それとも他の何処かから飛んできた言葉の通りだったのか、もはやそのどちらだったのかも怪しい。

「あんた、今更逃げ道なんて探してるの? 馬鹿なの?」

宗次は1人、楽しそうな表情の人々に混じって姉の言葉を反芻させながら、「麻庭修二特別展」のパンフレットについていた優待チケットを受付で見せ、中へ入っていった。
列は青色のパーカーを着たスタッフにきちんと整備されていて、まるで列の両脇に立つ青い柵のようだった。

宗次は、エスカレーターを使って2階へ上がった。正面には、表の看板を一回り小さくしたパネルと、矢印つきの立て札があり、人々の列を導いている。
午前中ということもあってか、肩がぶつかりあうほどの混み合いではなかった。
宗次は受付でもらったままだったチケットと特設展示パンフレットをポケットにねじ込みつつ、前を歩く紺色のジャケットの男の背中を見ながら、案内人の指示に従って左へ折れ、オレンジ色の淡い光に照らされた、展示会場への廊下をゆっくりと歩いた。クリーム色の上品な絨毯が、人々のざわめきと足音を丁寧に吸い取っている。

しかし、いよいよ会場の入り口に着いた、というところで、前方に人の壁があり、流れが止まってしまっている。必然的に宗次も立ち止まらざるを得なくなり、首を傾げた。
「――で、ありますので、この一枚目の絵は修二の初期の――」
前方から聞こえてくる声によれば、宗次のすぐ前で旅行の団体数十名が固まっているらしく、移動がもたついているらしい。
列は、じりじり、じりじり、と、一歩ずつ、牛歩戦術を模したように進んでいく。

「ただ、さっと見て帰りたいだけなんだけどなぁ」

宗次が心の中でぶつぶつと呟き始めた頃、前方の人々がざわめきだした。案内が終わり、各自自由行動となったらしい。
徐々に、人の壁が薄くなっていく。宗次にもようやく入り口の正面に置かれた一枚目の絵が見えるようになり、牛歩ではない速度で歩けるようにもなった。

宗次は、やれやれ、といった様子で会場に入り、正面の絵をちらりと見た。
そして、足が止まった。

 影の無いどんよりとした黄土色の空間に、一人の黒髪の少女が身体の正面に両手で額縁を持って立っている。彼女の持っている額縁の中には青空の広がる世界があり、その中にはまた額縁を持った少女が立っていた。それが、延々と繰り返されている。
少女の周りには、ゼリーのように溶けてぐずぐずになった時計や、逆さに砂を吐いている砂時計が無造作においてあり、砂時計のすぐ後ろには、悪戯を企んでいる表情の少女が隠れていて、額縁を持った少女をこっそりと見ている。

宗次は最初、その絵の迫力と、絵が発している圧倒的な衝撃に、ただただ呆然とした。
やがて、10秒、20秒ほど経って、その衝撃を飲み込むと、今度は夢中になって絵を観察し始めた。
少女が額縁を持っていて、砂時計があって、けれど砂は落ちていなくて、時計は崩れていて、もう1人の少女がいて、それは額縁を持った少女にどこか似ていて――
見ればみるほど、宗次はその影の無い黄土色の世界に引き込まれていった。目が乾いてひりひりするほど目を見開き、指先は意図せず震え、後ろから来る人々の迷惑そうな雰囲気を肌で感じているというのに、足が動かない。靴底が柔らかい床に貼り付いたまま、離れないのだ。
宗次は、空ろげに遠くを見る額縁の少女を見つめ続けた。

どれだけの時間が経ったのか、宗次自身の感覚ではよく分からない。
ただとにかく、ある時ふっと、糸が切れたように、凍っていた時間が突然動き出したかのように、宗次の足は動いた。その身体はふらふらと、人の流れに従って次の展示物へといく。
それはまるで、渇きを癒すために水を求めて彷徨う砂漠の遭難者のようであり、また、どこへ行くとも分からず進む夢遊病患者のようでもあった。

麻庭修二の特別展示会場は、体育館ほどの広さがあり、人々の列は1階から吹き抜けの2階へと続いている。全て、凝ったデザインの案内看板で順路が指示されていた。

その案内表示に従って歩きながら、宗次は壁にかけられた絵を、貪るようにして見つめた。
時には何度も何度も人の隙間を縫って前の絵に戻り、10分、15分とひたすら見つめ続け、そこに描かれた世界の全てを理解しようとした。

男が持っているライターから、火の代わりに人間の手が湧き出てきている絵。
四角と三角の立方体が並ぶ中に、赤ん坊が浮いている絵。
女性の身体を模した白い花に、色とりどりのフルーツが乗せられている絵。
身体は人間なのに、首から上は豚や馬や犬になっている人々が信号待ちをしている絵。
こちらに背を向けている少年の尻ポケットから草が生え、地面に花畑を造っている絵。
濃い赤色の本の海に沈む青年と、本棚の影からそれを眺めて笑っている男性の絵。
真っ白な世界に、銀色のナイフとフォークを持って横一列に並んでいる一家の絵。
何語とも分からない言語と線と点のみが、赤色と青色の2色で描かれただけの絵。
沢山の扉が浮いている世界に、1つだけ白い階段が浮かんでいる絵。
そして、実験道具と動物の標本が飾られた部屋で、コーヒーを飲みなが人物画を描いている画家の絵。

宗次は、自分の息が荒くなっていることを感じていた。これほどの興奮は体験したことがなかった。
小学校の頃の運動会前の跳ね上がりたい緊張感にも似ていて、好きな女の子を抱きしめたくて仕方が無かった衝動にも似ていて、試験が終わってから結果が発表されるまでの滲み出す情熱にも似ていたが、どれも、どうしたって、似ているだけなのだった。
その初めての感情と衝動に、宗次は戸惑った。戸惑いながらも、次から次へと目に飛び込んでくる新しい世界を渇望した。足は止まらなかった。
1つ終われば次の額縁が、宗次を手招きしていた。それら1つ1つの絵が、奇妙で非日常的な世界を垣間見せてくれる窓だった。

途中まで宗次は、絵の下に書かれた解説をきちんと読んでいたが、やがて大部分を読まなくなった。それらの言葉は、絵を言語として説明されないと安心できない人々の為にあるのだと思った。
故に、解説に描かれた「このランプに込められたのは現代社会に対する1つの灯火の象徴であり――」という説明は省き、麻庭 修二がこの絵を描くに至った動機、当時の彼の様子、状況が書かれた文章だけを、何度も何度も読んだ。
麻庭修二は、17歳で初めて公の賞を取り、その時点で通っていた美術関係の学校を中退し、芸術家としての活動を本格的に始めた、とある。画風は当初からシュール・リアリズムに近いものがあり、37歳の8月に発表した作品「空豆であるならば」以降、自身の独自の世界観を開花させる手法を身につけ、日本のシュール・リアリズム表現者としての安定期に入った。
2人の息子がいるが、それぞれ父のアトリエを継ぐ事はなかったらしく、アトリエ・生家共々、身内の管理下にあるらしい。修二は2回の離婚と5回の婚約を経験しており、それぞれの女性の好みに合わせて絵柄や取り上げるモチーフが変わっていた時期もあるらしく、これをもって「初期 中期 晩年期」と差別化する事が一般的である。今から10年前、58歳の若さで急死した、とある。

宗次は、絵を見ては衝撃を受け、世界観にのめりこみ、解説を読んでは麻庭修二の心境を思い、再び絵を見返し、咀嚼し、飲み込む、という事を全ての絵に対して繰り返した。
一枚一枚の絵を知るたび、遠い日のアトリエで創作をしている麻庭修二に近づいている気がした。手が届く気がした。

その後、100枚近い展示品全てを見回り、フルマラソンを完走したような疲労感にむせ返り、会場出口付近のソファに座り込んだのは、彼が特設展示会場に入ってから4時間経過した頃だった。

午前中の客は殆ど居なくなり、お昼の時間を過ぎ、午後の美術鑑賞に訪れた人々がまた列を成して展示会場の入り口に入っていく。
宗次は息を整えつつ、吹き抜けになっている2階の回廊からその人々を見ていた。それら全てに影が無いように見えたので、急いで目をこすった。
宗次は特別展示会場の半券を手にして、会場の入り口を見た。この半券があれば、再び会場に入ることが出来る。またあの世界へいける。
そう考えたとき、宗次自身の腹が、おそるおそる、といった様子で脳に空腹を伝えた。不思議な世界から抜けて現実に帰ってきて、腹が減っていた。疲労もまた、リアルだった。
仕方なく、といった様子で宗次はソファから立ち上がり、美術館内の軽食店へと向かった。
途中、人々の頭上を縞模様の青い魚が浮いて泳いでいる気がしたが、首を振ると居なくなった。

サンドイッチを恐ろしい速さで胃袋に詰め込み、宗次は再び「麻庭修二特別展示会場」へと足を運んだ。
今度は順不同に、自分が最も気になった絵をじっくりと監察し、その空間に自分が入り込んだら、その世界は中からどんな風に見えるだろう、と何度も妄想した。

 特に宗次が気になったのは、最後の絵から5枚目に展示してある、実験道具と標本の部屋でコーヒーを飲んでいる画家の絵だった。
解説によればこれは麻庭が唯一残した自画像であるらしいのだが、タイトルは他の作家にありがちな「自画像」等ではなく、「異常者を描く異常者の在り方」とある。
絵の中では、麻庭がキャンバスに向かって風景画でもなく抽象画でもなく、人物画を描いている。と言う事は、「異常者を描く異常者」の後者の異常者とは、麻庭自身の事なのだろう。では、肝心の描かれている人物とは――意図的にぼかしが入っているらしく、誰なのかは分からない。
宗次は、きっとその謎の多さと考える余地の広さがこの絵の魅力なのだろう、と思った。
そんな考えを巡らせている途中の事だった。
「ずっと見ていますね」
隣に立っていた男性が、潜めた声で宗次に声をかけてきた。
「え、あ、はい…」
急に現実に引き戻された宗次は、自分に話しかけてきた相手を見上げた。40代前後の男性、長身で髪は短く、シャツにスーツと固い服装だがネクタイは締めていない。きゅっと結んだ口角に、どことなく見覚えがあったが、誰だろう。
「あの、すみません…」
長い間立ち止まっていたことを咎められたのだと思い、宗次は軽く一礼した。
「いえ、いいんです。ただ、あまりにも熱心だから少し不思議に思っただけです」
「ずっと見てたんですか、俺…僕のこと」
「ずっとではないですが、小1時間ほど前に此処に来て、また戻ってきても同じ位置から動いていませんでしたから…」
男性は、口元を緩めふっと笑った。そして、宗次に向かって片手を差し出した。
「麻庭 修二の息子の、麻庭 結太(あさにわ ゆいた)です」
「えっ」
宗次は、思わずまじまじと麻庭の顔を見てしまった。反射的に握ろうとした手は、腹の辺りを彷徨っている。
そんな宗次を見て、麻庭は「まぁしょうがない」といった様子で笑った。
「堅道大学で彫刻を教えていますが、父の遺品や作品の管理もしています」
「そう、なんですか…」
ようやく彼の手を握り、宗次は麻庭の顔と、すぐ隣の壁にかけられた画家の絵を交互に見た。先ほど麻庭結太に感じた僅かな見覚えは、彼の父の面影だったのだ。
「似ているでしょう、あの絵の中の画家と、私。…父ですから」
「ええ、本当に…なんだか、そっくりだ」
宗次は呆けたように言った。言われれば言われるほど、見ればみるほど、絵の中の画家が、麻庭修二が額縁を乗り越えて出てきたようだった。まるで絵の中の人物と握手をしたようで、宗次は自分の手の中に握る彼の感触が信じられなかった。麻庭 修二を驚くほど身近に感じ、直線の境界線が曲線にうねる瞬間を垣間見た気がした。
一方麻庭はそんな宗次の葛藤に気づいていない様子で、ほがらかにこう言った。
「父の作品を気に入ってくださったのですね」
「ええ。でも、今日初めて知ったんです」宗次は、申し訳ない気持ちでそう言った。「でも、すごく引き込まれました、麻庭修二さんは、本当にすごい方ですね」
宗次からすれば、言葉では表せない衝動と感動を表す精一杯の言葉だった。
しかし、それを聞いた麻庭は、特に嬉しそうな表情もせず、肩をすくめた。
「そう言ってもらえるのはありがたいのです、父が褒められているのですから。でも本音を言えば、僕には、どうもコレは理解できなくてね」
そういいながら、麻庭は展示品を指し、しかし宗次のショックを受けた表情を見て、すぐに発言を改めた。
「単純に、抽象とかシュールとかが合わなかったんですよね、それは人の向き不向きだと思います。僕はアメリカのジャズが好きだけど、父はクラシックが好きだった。フィーリングと好みが、全てのきっかけと分け目だと思うんです」
麻庭の言葉を聞いて、宗次はきっぱりと首を振った。
「俺、シュール・リアリズムとか、そういうの美術の教科書ぐらいでしか見たことなくて、今まで理解できたことなんて無かったんです。でも、麻庭さんの作品は、何か分かるんです。多分、他の同じジャンルの作品を見ても、ここまで好きにはならない。麻庭さんの作品には、人の好き嫌いとか、そういう境界線を取っ払って引き込んでくる魅力があります」
麻庭は、少し厳しそうな表情をした。そして、どこか遠い目で会場全体を見渡した。
「昔から、父はそうやって人々の関心を奪ってきました。見た人全て、というわけではない。おそらくこの会場の中で、父のそんな真の魅力を見出せるのは、君を含めてほんの数人でしょう。ごく一部の人間と繋がりあう力が、父と父の作品にはあるのです、きっとね」
でも、と前置きして、長身の麻庭は宗次と視線を合わせた。
「父がよく言っていました。『私の作品は、常ならざる世界だ』と。そんな父の、異常な世界を描いた作品に、感受性の強い若い世代は惑わされ、影響されてしまう。まるで麻薬です。その証明、とは必ずしも言えませんが、父は異常すぎて、父の兄との仲を壊してしまった、という経験もあります」
知っていますか? という問いかけに、宗次は頷いた。ガラスの欠片とトビウオが全身に刺さった男性の絵の解説に、兄との不仲について書いてあったのを覚えていた。
麻庭は続けた。
「異常な世界を覗けば、なんらかの犠牲がある。犠牲があれば、異常な世界を覗ける。…父の考えです。しかし、僕はそんな考えは――」
彼はふとそこで言葉をやめ、軽く首を振った。
「まぁ、やめておきましょう。この個展の主催者なのに、作家の悪口を言ってもね」
そういって麻庭は自嘲気味に笑って腕時計の時間を確認し、おっと、と呟いた。
「私は行かなければ。父の昔からの友人が――その人も父の作品に妄執している人ですが、まぁ、偉い人が待っているみたいです。…それでは、さようなら」
麻庭は微笑んだ。宗次も微笑を作ろうとしたが難しく、むっつりとした表情を貼り付けたままだった。それ以上の表情は不可能だった。宗次には、この長身の男が自分と麻庭修二との大事な絆を切り裂く凶器のように思えた。その身体の中に麻庭修二の血を流しているというのに、宗次には絶対に手の届かない、麻庭修二との絆を、その資格を放棄しているようにすら見えた。
「気をつけて」
麻庭はそう言い残し、人の流れを逆に歩き、会場の入り口の方向へと消えていった。その背中がはがきほどに小さくなってから、宗次はようやく歩き出した。一瞬、視界がぐらりと揺れた気がしたが、すぐに頭を振った。目に、疲れがきているのだろうか。耳の奥が、熱かった。


美術館の窓から見える空が、橙色から赤色に変わり始めていた。
宗次は、名残惜しい気持ちで特別展示会場を出た。これから先、時間のある限り彼の作品に触れて居たいと思った。
思考の根源に麻庭の指先が根を張り、頭の中を内側から支配していくようだった。

会場を出る際に宗次は、売店で麻庭の画集と、ポストカードに加工された絵を3枚買った。
レジで精算をする際、売り子の女性の頭が2人ともそれぞれ豚と馬になっていたが、特に気にせずおつりの237円を受け取り、財布に入れた。
カバンを持ち直し、美術館のマークが押された白い紙袋を手にして1階へと下りていく。
途中で受付に座っている女性の頭上に赤ん坊が浮いていたが、美術館であることだし仕方ないと思い、そのまま外へ出た。

広い道に出て左へ曲がり、駅へ進む。途中、後ろから走ってきた立派な足の生えた鮫とぶつかりそうになったが、向こうが避けてくれたので会釈をした。宗次は、鮫がせわしない様子で、20メートル先にたった今止まったバスに乗り込むのを見た。ヒレがべちべちと入り口にぶつかり、鮫は大変だなぁ、と思った。
時々重たい紙袋を持ち直しつつ、彼は周りの風景を見回した。親に連れられて何度か来たことのある街だが、それほど馴染みはない。
しかし、ビルや建物があるべき場所が全て白い四角と三角の立方体になっているのは、何かのこだわりだろうか。
宗次は、そもそも何故美術館がパルテノン神殿に似ていたのだろう、建築家がお洒落にこだわりすぎて自分を見失っているパターンだろうか、などと考えつつ、曲がり角から飛び出してきた赤と青の点と線を避けた。それらはアスファルトにぶつかって、たんたたん、と跳ねて街路樹の向こう側へ飛んでいった。
「元気がいいなぁ」
俺は疲れているのに、と呟き、宗次はマンホールのようなれんこんをまたいで先へ進んだ。
途中、ピンク色の上着を纏った30代ぐらいの女性が、直径1メートルほどの林檎と手を繋いで歩いていたので、会釈をして道を譲った。林檎は夕陽に照らされて、アスファルトに巨大な影を落としていた。
「堅道南小学校」と書かれた小学校の前を通るとき、宗次は時計を見た。丁度下校の時刻らしく、学校の生徒玄関からは、大勢のシマウマが、班長を先頭にしてグループになっていた。シマウマの中には時折パンダも混じっており、彼らが時々青々とした竹で同じパンダや別のシマウマと殴りあったりするのを、先生が注意している様子が微笑ましかった。
さて、と時間を確認した宗次は、視線を道の前方へと戻し、「おっと」と呟いた。歩道真ん中に横幅1メートル、高さ10メートルほどの兎の彫刻が置いてある。右方向によけて、地面と排水溝の間に落ちているマンボウを踏まないように気を配った。

すぐ近くの横断歩道では、青色がちかちかと点滅し、赤色に変わった。途端に歩道の白線が幾何学模様を描いて人々が渡るのを遮断し、赤信号で人が通らなくなった道を、車とトビウオが進んでいく。宗次は一端紙袋を地面に下ろし、青信号を待つことにした。
10台ほど車が通り過ぎたところで、たたたたた、と軽快な足音が右側から聞こえた。40人余りの楽器隊が、それぞれのパートの楽器を持ちながら車の列の最後尾に続いて時速50キロほどで走り、車道を右折していった。全員、赤い制服、白い腕章、黒いパンツ、首から上は猫で統一した、規律のいい楽団だった。
「いやあ、今度の演奏会が楽しみですな」
車用の信号が青から黄色になるのを見上げながら、宗次の隣に立っている赤いポストが話しかけてきた。
「確かに。会場はファミリアでしたっけ」
宗次は答えた。
「ええ、大きな看板が出ていますから、きっと分かるでしょう」
ポストが言った。
その時、歩行者用の信号が赤から鮮やかな青に変わった。信号の表示からは滝のような水が流れ、それが地面につく頃に植物になり、地面を綺麗な花畑にしていく。最初、花畑には沢山の蝶々が飛んでいたが、どれも10秒と持たずに空中でぱらぱらと枯れ、塵となって風に消えた。

やがて、四角い立方体がなくなり、空の色が鈍い黄土色になってきた。
前を歩く紺色の人々のスーツ姿からは影が消え、自分の影さえも薄くなり、きっぱりと無くなる。
歩き続けて、息が乱れてきた。心臓がばくばくと脈を打っている。
紙袋は重かったのでその場において、宗次はただ歩き続けた。遠くで電車が去っていく音が聞こえた。
途中、道端の電柱の下で、ピンク色の薄い衣装を纏った踊り子が、たくさんの男性に囲まれているところを見た。
よく見れば、姉だった。赤い靴を履いている。
姉は器用に踊りながら、時々ピアノの鍵盤を叩いていた。その黒いグランドピアノの蓋の上では、杉本の顔をした鴨が、くえくえ、と鳴きながら姉の踊りに合わせて身体を揺すっている。
その光景を見ないように呼吸を落ち着けようとしながら、宗次はひたすら前に向かって歩き続けた。
歩き続けているうちに、辺りのアスファルトの舗装がかさぶたのようにぺりぺりと剥がれ、それぞれ上へ上へと天高く上っていった。黄土色の頭上には、魚と砂時計と蝉が飛んでいた。
はがれた舗装は、砂時計の中へと吸い込まれている。灰色のアスファルトが、まるで金魚蜂のような砂時計の球体の中で銀色に光っていた。それらは海の中に時折見える白いきらめきのように、怪しく揺れていた。
アスファルトが剥がれ、空も黄土色に押しつぶされ、世界はいよいよもって一色に変わってしまっていた。
荒野のようであり、砂漠のようであり、深海のようであり、宇宙のようでもある。砂時計の中のきらめきがどこか遠くの空気の中に溶けて消えるたび、世界から音が消えていった。宗次は耳の奥に、ぼぉっ、という空気圧の唸り声を感じた。

ふと気づくと、黄土色の世界の中心部、宗次の30メートル先の真正面に、一人の少女が立っていた。
黒くて淡い髪を風に揺らし、どこか遠い目をして大きな額縁を両手で持っている。身体の正面に合わせて、それを宗次に見せようとしていた。
宗次は立ち止まり、その額縁を見た。
額縁の中には、青い空が広がっていた。青い空、緑色のフェンス、黄土色の土の色、グラウンドの土の色。
そこにうずくまり、膝を抱えて泣いている小さな男の子。泣きじゃくっては周りを見回し、迎えを待っている表情。
少女が首を傾げた。遠くで踊り子の姉の、悪戯が好きそうな笑い声が聞こえた。
宗次は呻きとも叫びとも分からない声をあげ、走り出した。
正面の少女を突き飛ばすようにして走り去り、額縁を遠ざけた。
汗も涙も、全てが噴き出していた。ただただ走り続け、やがて周りに、たくさんの額縁が浮き上がり始めた。
それぞれの額縁の中に、小さい少年が居た。どの子どもも、自分を置き去りにした相手に対して向ける、不可思議と戸惑いを混ぜ合わせた表情をしていた。
どの額縁を見るのも嫌で、宗次は目を閉じて走り続けた。涙が目尻から頬へと走った。

やがて、靴底に触れるものの感触が変わった。黄土色の土から、つるつるした床へ。
宗次は目を開けた。
白い階段が目の前にあった。階段の先は光っていて、そこには黄土色も額縁もなかった。
宗次はすがる思いで階段を駆け上がった。鴨の鳴き声と姉の笑い声がすぐ背後まで来ている気がした。
何度も何度も滑りながら、宗次は階段を上がった。
そして、最上段にある、門のような入り口をくぐった。

ぱっと光が溢れ、宗次はぎゅっと目を閉じた。
そして目を開けると、そこは部屋だった。
鹿や豚や馬などの動物の標本。そして、ビーカーや試験管などの実験器具。壁に寄せられた木製のテーブルの上には、アクリル絵の具に、筆に、濃い絵の具で汚れたふきん、色とりどりの砂時計、それにコーヒーのマグカップ。
そんな数々のがらくたに囲まれて、部屋の中央でこちらに背を向け、キャンバスに向かっている画家が居る。
麻庭修二だった。

宗次は、よろめきながら彼に近づいた。
麻庭修二は宗次に気づいているのか居ないのか、熱心な様子で、人物画に色を載せていた。

その時宗次は、そこに描かれていたのは自分なのだと知った。





異常な者

inserted by FC2 system