奇妙な者 それにしても、奇妙な話とは底をつきませんな。 しかしそれも納得のいくこと。何故ならば、人間はそもそも奇妙の塊。 底なしに奇妙を振りまく素のようなものですからな。その人間が1人でなく2人、3人、4人と集まり、1つの国や社会がそこにあれば、まぁ奇妙なことが無い方がおかしい。 そして時には、人間以外の不思議な力もまた、働く。というのは、人をある種の奇妙な方向へ導く力のことです。 人間が奇妙の素であれば、人間外から働く力とは、味付けのようなもの。 しかしそれが面白い。 貴方も、そう思いませんかね。 今夜は私の、大変奇妙な友人の話をしましょう。 いえいえ、私なんて奇妙のうちに入りません。彼は、奇妙。私は、奇妙好き。ここを間違って捉えてはいけませんな。 その友人とは、数年前に知り合ったのです。お互いに学生の頃に出会ったのですが、そのきっかけは忘れてしまいました。しかしどうも何か、互いに通ずるものがあって今の仲になっているものと思います。 とにかく出会った頃から、彼の奇妙さは変わりなく、むしろ年を経るごとに進化というか成長というか、どんどんずぶずぶと独特の世界に入っていくばかりです。 いや、まぁ彼は確かに、彼は外見上、なんの変わった様子もないんです。別に奇妙な言動もそれほどありませんし、珍妙な行動もそれほどありません。 彼が駅の待合室で隣に座ってこようとも、誰もそれほど気に留めないでしょうし、特別嫌悪するということもないでしょう。 つまり、町を歩かせているだけなら、誰もが何の問題もない、ただの正常な人だと思う、それが彼なのです。 しかしながら、彼を知っている者からすれば、彼がそうして一件普通に見えることほど、奇妙な事もないと思うのですよ。 で、その彼の、どこがどう変わっていますかというとですね、彼は、本を愛しているのです。 お分かりになりますか、なられていない顔ですな、もう一度言いましょう。本を、愛しているのです。 それが何かおかしいことでも、とおっしゃいますな。そうですな、そりゃ確かに、世に本好きというのはたくさんおりますな。 本を読むのはそんなでも、最近では本コレクターなどという趣味もあるらしいですし、なかなか、世の中それ自体おかしなものです。 しかしながら、しかしながらですよ。彼の、本を愛しているというのは、その彼から本への愛情というのは、それはそれはなんというか…度を越えているのですな。 いえ別に、本に指紋をつけたくないとか、本を保管する為だけの部屋があるとか、自分の本は触らせないとか、そういった度の越え方ではないのですよ。 ほら、潔癖症というのがあるでしょう。あれもまた、日常を外れて異常なものの一種ではありませんか。度が過ぎなければきれい好き、度が過ぎれば精神異常者。 世の中、線引きが厳しいですね。 彼の場合もそうです。度が過ぎなければ趣味の人、度が過ぎれば異常者。まぁそういった感じで。ではなぜ本を愛していることが異常者になるのかという話ですな。 彼はですな、本をまるで人のように愛しているのです。そう、私たちが異性に向けて発する愛情と同じものを、彼は一冊の本に向けているのです。 実際に手で触れて愛撫、まぁそれは普通ですな。表紙、背表紙、裏表紙。すべて撫でつくします。しかし、それだけではないのです。そこに至るまでの過程が、また奇妙でして。 あなた、いきなりその辺にいる女性を見つけて撫で回したりしますか? しないでしょう。 彼の異常といえるところの1つは、本を、本当に、異性と同じように見ていることなのですな。 彼にとって本は本でないのです。 というのは、彼はまず、本に片思いをするのですよ。 彼には通いの図書館…こんな言い方をすると、通いのバーのようですが、まあそういうお気に入りの図書館がありまして、たまに、出会いがあるのですな。 で、片思いを始めたら、それからはより熱心な通いですな。 図書館に通い、そのお目当ての本――えー、たとえば百科事典の第何版とかがあれば、その第何版の第何巻が置いてある本棚の傍までいき、じっくりとまぁ遠くから見ているのですな。その様子を私、何度も見たことがありますが、あれは完全に恋する乙女の所作に似ています。 物陰から憧れの人を覗く女学生、あれを思い浮かべていただければ幸いです。 それを、よい年の成人男性が行っていると考えれば、少し難しいですがその様子を具体的に想像していただければ、簡単に彼の異常さがわかるかと思います。 しかしまぁ、彼がどれだけ異常でも、周囲に迷惑をかけない異常者である分にはよいことだと、私思うのですけどね。 せいぜい、彼を目撃した人が怪訝に思う程度、あるいは少々気分を悪くする程度なのですから、そんなに実害はありませんな、ええ、まったく。 で、片思いが終わるとですな、まぁ、彼はかなり形式にこだわる性質ですので、文通を始めるのですな。そう、文通です。 本と文通をする。おかしな話ですな、材質は同じ紙ですのにな。 まぁ、したためた恋文を本の隣、あるいはすぐ上の書棚などに置いてきて、一日経ったぐらいの頃に、また見に来るんですな。 そうすると、まぁ、手紙が残ってる場合もあります。しかしあるとき、無くなっていることもあるんです。 驚くこともないでしょう。例えば、掃除の人であるとか、風で落ちたとか誰かに持っていかれたとか、色々理由は考えられるのです。 まぁ、あまりに同じ図書館に通いつめてそんな不審な行動をしていますと、係員もこれはおかしいと思って、警戒したり見張ったりと策を講じられてしまいますので、その辺には注意深くしているらしいですがね。 時に、彼の恋文が誰かに持っていかれた場合は、これはもう悲劇としかいいようがありませんな。彼にとっても羞恥のことですが、むしろ読んだ方のね。 何せ、彼の情熱と一種の狂気に満ちた恋文の文章は、それだけで人の脳を狂わせるのではないかと思うほどですからな。 私も一通や二通、文の推敲を手伝ったことがありますが、まぁなんといいますか、この世の恋愛小説の甘ったるい部分を一部分ずつ切り張りしたような、赤面して窓から投げ捨てたくなるような、鍋の底に張り付いたカラメルのような、なんとも形容しがたいものでしたよ、ええ。 たとえ彼に会うことがあったとしても、彼の内面の奥底の部分にこびりついた思慕の文面には、触れない事をお勧めしますな。 しかし、まあ、その彼というのは前向きな奴でしてな。ポジティブ、という奴ですな。 昨日本棚に捧げた手紙が翌日忽然となくなっているのは、本がそれを熱心に読んでくれているから、と思うんですな。 で、この手紙を渡す、無くなる、渡す、無くなる、渡す、無くなる、の繰り返しが何度となく続き、どうも彼の中で…感じるらしいんですな、手ごたえを。 これも私遠くから見ておりましたが、その、手ごたえがあったのであろう、それを悟った瞬間の彼の表情、まさに恋する乙女といいますか、跪いて神への感謝でも歌いだしそうな様子でしたね。 で、それからはお付き合いです。ええ、本とのね。 はは、愉快でしょう。まぁ、先ほど述べたように、愛撫して、時には頬ずりをして、たまに買い物や観光に行くこともあるそうです。 私は何度かその記念写真を見せてもらったのですが、まぁ…なんといいますか、海を背景に、本を片手に持ってにっこりと笑っている彼だとか、本を胸に抱いている彼だとか、大判の本と肩を組んでいる彼だとか、そんな写真ばかり、というかそんな写真しかないのですな。 しかしほら、他人の順風満帆な恋愛話なんてねぇ、私むしろ破綻する寸前の修羅場の方が好みでしてねぇ、はは、ねぇ…。 …おや、少し寒くなってきましたか。 そちらの方は風が当たるでしょう、さ、こちらへこちらへ。 え、彼が本を開く事があるかって? ああ、関係がそこに至るときも、時々あるそうですよ。 というのは、彼の考えでは、本の中身をのぞく事は、女性の衣服を、特に下着をのぞき見るような行為にあたるらしいんですな。 けれどたまに、本の方から中身を見せてくれるときもあるらしいですよ。 まぁ、偶然と言うか、風でぱらぱら、といったところでしょうな。それでも彼は、そういった1つ1つの偶然を、本の意思だと信じて止まないのです。 いや、信じてしまうからこそ、今の彼の奇行に至っているのでしょうが。 …そう、であるが故に、私にその恋人の…まぁ、本の外装を見せてくれる事は多いんですが、中のページを開いて活字や挿絵を見せてくれた事はありませんな。 それはまぁ、彼の常識に照らし合わせれば当然ですな。中々好き好んで、自分の好きな相手の下着姿を友人に晒したいものではありませんし。 というよりはあなた、逆に見せられても、私もどう返したものか分かりかねますよ。 「おお、魅力的なインクの具合だねぇ」と褒めてみればいいんでしょうかな、これではいまいちでしょうか。まぁそれは、外装を見せられたときでも中々戸惑う事です。 「ああ…中々、うん、具合がいいようだね」というと、彼はたいていの場合「まぁ、僕は恋人を外見で選んだりはしないけれどね」と言うのですからね。 えぇ、私もいっそ「古本屋でも開いたらどうだね」と言ってみたことがありますが、彼自身は本を扱う職業に就く気はないらしいのです。 彼の職業ですか、百貨店で物を売る仕事ですな。 1丁目に、大きな白い百貨店があるでしょう、あの看板がでかでかとした――そう、そこです。そこで文房具を売っているのですな。 言いましたとおり、素性を知らなければ物静かで真面目な好青年ですので、今のところ勤務中に問題を起こしたことはないようですが。 まぁそんな彼でも、本で全ての欲求が補えているならば、燻った思いの丈が生身の女性への乱暴に向かう、なんてそんな悲劇にならなくてよいではないか、と私はそう思うんですよ。 え、それでは彼は生身の女性に本当に興味がないのか、って? さあ、彼に聞いてみないと分かりませんが、彼が女性と一緒にいるところなど、そこそこの付き合いですが見たことありませんのでなぁ…。 私は、彼の過去については一切聞いていないのです。過去の具体的な恋愛体験から本を愛するようになったのか、それとも物心つくころには本を愛し、思春期には本のスカートめくりでもしていたのか、などと。 何せ重要なのは、過去の彼より今の彼ですな。まあ、機会があればいずれは彼の幼少時代の話も彼から聞いてみたいものですが。 しかしながら、彼の女性観については、今こうやって考えてみても、あまりよく分かりません。 選ぶ本もですな、別に魅力的な女性が挿絵や表紙になっている本ではないのです。 辞書だったり、論文だったり、時にはなんでしたか、取扱説明書や歴史書、他には文学や植物図鑑だった頃もありましたな。大きさも、大判だったり文庫本だったり、分厚かったりぺらぺらに薄かったり、古かったり新しかったり、汚かったりカバーがついていたり。 まぁほら、選ぶ異性の外見というのは、その時々に応じて変わることもあるではないですか。 彼などその典型なのですな。 そう、何故そんなに種類を多くあげられるかというとですね、彼はこんな奇妙奇怪な恋愛をしておりながらですな、実はもう1つ、奇妙、というよりは問題、癖を抱えているのです。 まだこれ以上あるのか、という顔をしてらっしゃいますな。 しかしこちらは、本を愛する、という行為ほど難解ではありません。ごく、ありふれたことです。彼に当てはめると複雑ですが。 と、まぁ単純に申し上げまして、彼は、浮気性でしてな。 たまに、二又などをすることもあるらしいのです。 曰く、英和辞書と源氏物語を同時に愛したり、際どいところでは世界地図と日本地図を同時に愛したこともあるそうですな。まぁ、彼いわく際どいらしいのですよ。 ええ、浮気性なのです。…中々複雑な顔をされていますな、私も初めて彼から「実は今二又をかけているんだよ、君」などと自慢されたときには、どう答えていいものかわかりませんでしたな。 ええ、そうでしょう、奇妙でしょう。わけが分からなくなるでしょう。 とりあえず私も、「それは、…ああ、酷いじゃないか、君」などと言ってみましたが、それも言ったあとよくよく考えてみると、変な話なのですな。一体、何が酷いというのでしょう。 だって考えてみてください。 こんな事を言っては彼が激怒するでしょうが、彼が二又をしようが三又をしようが、いっそ不倫をしようが離婚をしようが、どこにも被害者などいないのですよ。 本が膝を折ってハンカチを噛み締めて涙を流すわけでもなし、本は本として、捨てられればそれだけ、つつましく本棚に戻されて次の利用者を――恐らくまともにその本としての本来の役目に使うであろう――利用者を待つだけなのですよ。 しかし、彼はどうも浮気をしていることを酷いと言われても気にせず、むしろ「そうだろう、俺は極悪人だな」などとほくそ笑むのですな。まさにほくそ笑む、といった表情でほくそ笑むのですな。 もういっそ、辞書か何かで頭を引っぱたいてやろうかと思った事も何度かあります。 いやしかし、大抵ああいう偏屈な人間は、この世で唯一愛せるものを見つけたらば、気が狂うまで愛してしまうもの、と相場が決まってはいませんかね。大抵の、奇人、変人の愛や執着を描いた本というのは、そういうものでしょう。 私は勝手ながらそう思っていたのですが、彼はどうも偏屈な愛の執着が情熱的すぎて、すぐに燃え尽きてしまうようなのですな。 あちらの書棚、こちらの書庫、次はあちらの4丁目の本屋、と、移り気の激しい奴なのです。 これからも彼はそんな事を続けるのかって? …いやぁ、どうでしょうなぁ。私には到底わかりかねます。 それはもう彼次第でしょう。彼がやめようと思えばやめるでしょうし、やめなければ、ねぇ。 …ん、何か意味深げだと? いやいや、そんなそんな。 いえね、ただ彼、最近とても太っているのですよ。ええ、それはもちろん、体格がね。 まぁ理由は、恋太りですな。彼は仕事が終わってまた翌朝始まるまで、時間が空けば空くだけ、愛する本と一緒に過ごして、寝て、食べて、愛する、それだけの、まるで中世の道楽貴族のような生活を送っていますのでな。 ここ1年で、ぶくぶくと、とは言えませんが、だんだんと太ってきているのが分かるのです。 将来は仕事も手放して、恋愛のみに生きると言っているぐらいですから、これからも体重は増える事はあっても減る事はないでしょう。 そして、もう1つ。 これはまるで人類の文化の発展の歴史を見るかのようなのですがね、近頃何故か彼の好みの書物がですな、だんだん上がっているのですな。 というのは、物理的に。 彼は、先ほど申しましたとおりの浮気性で、相手は数週間ごとにころころ変わってしまうわけなのですが、その好みの本がね、だんだん、天井に近い段の本になりつつあるのです。まるで、何かの力に導かれているかのようにね。 いや、これは本人も気づいていないでしょう。私も、ここ最近のある日、おやと気づいたぐらいですから。 いかがです、まるで鳥に憧れ翼を求めた人間が如く、梯子を使ってより高い本棚の本を追求する、しかし追えば追って満足してまた次を求めるほど、その身体を醜く太らせてしまう、彼の姿。 一種の、物語の結末が、見えると思いませんか。 私はこう思うのです。 彼はいつか、その体で梯子に登り続けるが故に、本棚の最も高い場所からの転落の確率を高めてしまうのではないか、と。 そして、単なる偶然で、あるいはそこへ彼を導いたもののちょっとした悪戯で、指先1つの力で、その高まった確率が、いずれ実際のものとなってしまうのではないかと。 私はそう思うのですよ。 え、何故その事を彼に黙っているのかって? それは簡単な事。 これもまた、趣味の1つだからですよ、あなた。 さて、私の友人の話はこんなものです。 お茶をもう一杯、淹れて差し上げましょうか。 奇妙な者 |