三、佇む女、立ち止まる男

 高山が雨之宮の家にやってきて、3時間ほど経った頃だった。
「兄さん」
庭の木々の陰から、小柄な少女がすっと顔を出した。白のブラウスを着た清楚な外見で、髪に朱色と緑色の花飾りをつけている。
「ああ、お前か。どうした」
そう答えたのは、5杯目の麦茶を傍らに置いた高山だった。
問われ、少女は答える。
「母さんが呼んでるわ。麗子おばさん達が着いたから、すぐに帰ってこい、って」
高山は、雨之宮を見て、そして言った。
「俺はそういう事には顔を出さないと言っただろう、西瓜だって取っておかなくなっていいんだから」
「顔ぐらい見せろ、って母は言ってたわ」
「だからな、巴(ともえ)。俺は――」
「私は、兄さんに伝えろって言われただけだもの。私に何を言っても無駄よ」
「…」
高山は、大きく息をふーっと吐いた。そして、やれやれといった様子で立ち上がり、振り返って雨之宮を見た。
「アマ、すまない」
「いいよ、構わないから」
雨之宮は手を振った。高山もそれに片手で応えた。
「楽しかったよ」と、雨之宮。
「ああ、またな」と、高山。
高山が、庭の木々の間に消える。少しして、勝手口の扉がきぃと開く音が聞こえた。
そして、あらゆるものの輪郭が溶けて見える暑い庭に、雨之宮と、高山の妹だけが残る。
雨之宮は手を下ろして膝の上に置き、彼女に声をかけようと口を開いたが、
「…」
高山の妹は軽く会釈をし、何も言わずにすたすたと木々の間に消えていった。遅れて、きぃ、という音が続く。
雨之宮は、持っていたものの一部がすっぽりと抜けてしまったような、そんな気分でそこに座っていた。

雨之宮と蝉と蝶々しかいない庭は、酷く静かに思えた。が、しかしすぐに、ぱたぱたという神経質な足音が廊下側から近づいてくる。
「もうお帰りなさったのね」
ぴんとした声が、雨之宮に降りかかった。雨之宮は肩越しに振り返り、厳格な色の着物を纏った長身の女性を見上げる。
「ええ、少し前に」
少し、という言い方に、雨之宮は若干の皮肉を入れた。
高山が去ってから、まだ1分も経っていない。一体この女性は――雨之宮の母は、いつからどこから、自分達の会話に耳をひくひくさせていたのだろう。

「そう、疲れたでしょう、布団をしきましたから、おやすみなさい」
母の口から流れる言葉は、形こそ優しいものの、鉄でできた網のように硬く冷たく、雨之宮を抑える言葉だった。
「…あまり、眠くは――」
「おやすみなさい」
どちらも静かな口調だった。空気が張り詰める。
じりじり、と雨之宮と母の間で視線がせめぎ合い、そして、
「…分かりました」
折れたのは、雨之宮の方だった。
日光が迫る室内で、暗い布団の上に雨之宮は横たわる。備えてあった掛け布団はかけず、枕に頭を押さえつけるようにして、彼は横になった。
目を閉じると、頭の中がくるりくるりと回る。あらゆる思考と言葉が、何度も何度も繰り返されては消え、あらゆる顔と声が、揺らぎせめぎあいつつ混じりながら溶けた。

目を閉じて耳だけで世界を感じていると、やがて、蝉の声が雨の雑音に変わっていく。

 目蓋の裏の世界で、雨之宮は小川に佇んでいた。

それは昨年の夏の前、梅雨のことだった。
雲が黒く、暗い日だった。雨之宮は朱色の傘を手に、家から少し離れたところにある小川を散歩していた。
ただでさえ雨之宮を家に閉じ込めたがる家族達の手と目をかいくぐり、彼は数少ない散歩の機会をそれなりに楽しんでいた。
見つかる前に帰らなければならない。けれど足は、まだまだ先へ進むのだ、と言う。
引き返す場所を見失ったまま、雨之宮はどこか自棄な気持ちを抱え、灰色の雨の中を歩いていた。
「このままどこまでも歩けたら」
雨之宮は思った。
「先なんて分からなくていい、どこを歩いているのかも分からなくていい、そんな場所へ、歩いていけないものか」


少し歩いて、雨之宮は立ち止まった。
両側を柳に囲まれた、黒塗りの小さな橋があった。
右に行けば華やかな通りへ繋がる交差点、左の橋を渡れば、曲がりくねった坂道がある。
しかし彼が立ち止まった理由は、その橋があったからではない。橋の上に、一人の少女が立っていたからだ。
その姿は、まるで幽霊だった。灰色を溶かした光景の中に、白いブラウスがぼんやりと見えている。手で掻き消せば消えてしまいそうでもあり、逆に何があっても根強く根深くその場に居座り続けそうでもある。
偶然か、あるいは彼女の雰囲気に押されてか、道にも橋にも、人の姿は少なかった。
そんな中立ち止まってみたものの、雨之宮は彼女になんと言葉をかけるべきか、迷っていた。
しかし、
「こんにちは」
意外にも、先に声をかけたのは少女の方だった。
黒く大きな目が、雨之宮をぐっと捉えている。彼女のこの目は、いつも変わらないのだな、と雨之宮は思った。

「…どうも、こんにちは」
雨之宮は軽く頭を下げた。傘の先から、雨粒が垂れた。
高山の妹、高山 巴は、機械のような動作で首をこちら側に向けた。
「雨之宮さんと御会いするのは、久しぶりですね」
雨の中でも、はっきりと通る声だった。兄のように覇気に満ち溢れているわけでもなく、しかし弱々しいというわけではない、自分の伝えたい範囲を心得ている声だった。
「…ええ、そうですね」
雨之宮は答えながら、何かを伺うようにしてゆっくりと橋へと近づいた。
「卒業してしまうと、中々会えないものですね」
「寂しいことです」
巴が言った。その目は、真下の川の流れを見ていた。
「私の身近なところに、雨之宮さんが居ないなんて」
雨之宮が、どう答えたものか、と迷っている間に、巴は言葉を続けた。
「雨之宮さんと兄の、高等問答のようなお話が、とても好きでした。…身近に居て、聞いていて、私も時々意見をして、それが楽しかった。…兄も雨之宮さんも居ない学校は、とても静かです」
巴の物憂げな表情は、「退屈」を身で表していた。
雨之宮は彼女の隣に立ち、同じところを眺め、そして言った。
「貴女の意見は、ぶすりと刺さるようでした。僕も高山も、思いもつかないことを、さっと言ってくれる。あなたが加わってお話をするときは、新鮮な気分でした」
巴は首を振った。
「何も。…ただ、無知なだけです」
「そんな事」
「いいえ、きっとそうなのです」
巴は顔を上げた。雨之宮を見た。雨が、ざぁっと音を立てた。
「私は、難しい事なんてわからないから」
巴の細い指が、傘の柄をきゅっと握るのを、雨之宮は見た。
「兄が話すことも、なんだか小難しくて馬鹿らしい。…そう思います」
雨之宮は、ふっと笑った。
「時には誰かがそう言ってあげたほうがいいかもしれませんね、高山はなんだか最近、仕事に浮かれすぎている気がする」
「…」
巴は、傘ごしに雨之宮を見上げた。
「雨之宮さんは、兄にそれを言ってあげないんですか」
「え?」
「時には誰かが、そう言った方がいいかもしれない。…雨之宮さんは、その誰かではないんですか」
「…そうですね、きっと違うでしょう」
雨之宮は小さく頷き、そして一種の確信を持って言った。
「人にはそれぞれ、役割があると思いますから。高山には高山の役割がきっとあるのです。同様にして、高山に、少し馬鹿らしいよ落ち着きなさい、と言う役目は、僕ではないと思います」
「…何故、思うのですか」
少女に見上げられ、雨之宮はふっと笑いながら答えた。
「一種の勘です。分かるものなのですよ」
「…そうですか」
2人は、暫く黙った。雨が、視界の大半を不鮮明にしている。川の下では水かさの増した川がいつもより早く流れ、雑草や小石を飲み込もうとしていた。空は白く濁り、人々はその淀んだ濁りの下でそれぞれの目的へと急ぎ、水溜りを蹴っている。
「…そうだとしたら…」
巴が口を開いた。紫陽花色の傘が揺れる。

「雨之宮さんは、どんな役割を持って此処にいるのですか」
問い詰めるというわけではない、静かな口調だった。まるで、道端で見つけた花の名前を聞くような、そんなさりげないで、巴は雨之宮の表情を奪った。
少々の間の後、雨之宮はゆっくりと彼女の言葉を繰り返した。
「僕の役割…?」
「そう…」
巴は、真っ直ぐ前を見ていた。
「生まれた意味、そしてその負った役割。その役割を果たさずに死ぬことは、命そのものへの冒涜と裏切り、背信。そうは思いませんか」
「そう、かな…」
雨之宮は、傘の柄を握りなおした。横髪を撫でつけ、橋の欄干に溜まった水を指で掬う。
「…でなければ、役割を背負わせる意味がないのでは、と、そう思いました」
「背負わせるとは、第三者が?」
「というよりは、命を与えた誰かが」
巴の口調は、必然的な物事について答えるかのようだった。

雨之宮は、ふーっと息を吐いた。
「本当に変わらず、鋭いですね、それに独特だ」
「どうでしょう、そうでもないと思います」
雨之宮は、指先で掬った水滴が垂れて小川に落ちていく様子を見ていた。
「まるで、高山と話しているみたいだ」
「兄とは違います」
普段より低く、堅い中身を伴った声だった。彼女のこんな声と態度は珍しい、と雨之宮は思った。
再び沈黙が訪れた。背後からきゃあきゃあという声が聞こえ、5,6人の子供達の集団が、水溜りを騒がせながら前方へと走っていく。色とりどりの服が、灰色の景色の中へ溶けて混じって消えていった。
「…高山のことは、そんなに好きではないのですか」
雨之宮は、あくまでさりげなく、といった様子で尋ねた。
「好きとか嫌いとか、そういうものではありません」
巴が答えた。
「兄とは違う、それだけです」
まるで、聞いてはいけない事を親に聞いてしまった子どもの様な気分だった。雨之宮は手持ち無沙汰気味に傘をくるりと回した。

ふと、巴が口を開いた。
「雨之宮さん」
「はい」
「…入院するって、聞きました」
「…ええ、そうですね」
雨之宮は巴から視線をそらし、小川の先の家々を眺めた。
「…病気はだいぶ治ったって。…学校に居る間も、ずっと健康そうに見えました」
巴の言葉に、雨之宮はくっと笑った。
「学校に居る間は治っていたのです。…寮生活でしたから。…家に戻れば、またぶり返す病気です」
「…そう」
淡い紫陽花色の傘が、ふらふらと揺れた。
「雨之宮さん、私そろそろ帰ります」
巴は、雨之宮に向き直った。雨之宮も、身体を捻って彼女の方を見る。
「そう、気をつけて。…会えて楽しかったですよ」
「…ありがとうございます、それでは」
静かな会釈をして、巴は橋を渡った。そして数歩歩いたところで、振り返った。

「ねぇ雨之宮さん、その朱色の傘、本当に綺麗」
その声は、はっきりと通った。

「貴方ってなんだか金魚みたい」


一年前、夏の前の梅雨の出来事だった。
記憶はそこで黒く塗りつぶされ、音は雨音から蝉の音へと帰ってくる。

目蓋を開ければ、自分の部屋だった。夏の暑さの中、掛け布団もかけず、母の命令で横になっている自分が居た。

雨之宮はとろとろと眠りについた。
太陽は日差しを緩める気配もなく、雨が降る様子など微塵もなかった。


四、偽った男、恥じる女、偽る男

 それからほんの2週間後の事だった。
雨之宮は、高山の家の玄関に立っていた。

「こんにちは」
と、雨之宮が言った。
「…いらっしゃいませ、よくお越しくださいました、感謝致します」
と、巴が答えた。

その家の静けさは、まるで葬式の会場のようだった。或は、墓場にも似ているかもしれない。
恐らく、この家に溢れていた覇気の持ち主が、今は静かだからだろう。まるで、明かりを消した後の闇のように、そこには何の光も無い。
 雨之宮は、ひたひたと廊下を歩いていた。前を歩く華奢な少女の背中を見つめながら、毎度つくづく思うけれど、本当に似てない兄妹だな、などとそんな場違いな事を考える。

 寝室に通された。
部屋の中は、整っていた。がっしりした机、木製の本棚、いくつかの置物、薄い色使いの風景画、時計。それぞれがそれぞれの場所に置かれている。
これは彼が元々綺麗好きだったのだろうか、それとも今の状態になってから、家の者が片付けたのだろうか。
雨之宮は先に入った妹に続くことなく、出入り口に佇んだまま、部屋の中央の白い布団の上に横たわる高山の姿を見た。
彼の体は、まるでしぼんだ風船のようだった。体格は一回りか二回りほど小さくなり、気力に溢れていた目は閉じられ、時々目蓋がうっかりと開いては、空ろな眼球をこちらに見せている。

急な病気にかかった。
何日ともたないかもしれない。
治る見込みはないため、病院ではなく家で、家族が交代で世話をしている。
彼の友人の中で、貴方だけがきっとお見舞いに来てくれるだろう。
だから、来て欲しい。
最期に、会って欲しい。

ある日、そんな電話が雨之宮の元にかかってきた。電話の向こうの声は震えていて、悲しみに満ちてはいたものの、どこか冷静な面も伺えた。

雨之宮はすぐに身支度を整え、親の強固かつ粘着質な反対を「友人の見舞いだから」となんとか押し切り、久々の外出をした。
とはいえ、あまりにも急な事であったため、高山に何を言えばいいのか分からない。
彼に持つべき感情は、同情か、哀れみか、それともいつもと変わりない笑顔を見せればいいのか、まったく検討がつかず、彼の顔を実際に見れば何か言葉も湧いてくるだろうと考えて来てみたものの、いざ彼を目前にして何か浮かんでくるものなどなかった。
ただひたすら、信じられない、という気持ちだけが先行し、他の全ての感情の居場所を奪っているのだった。

とりあえずは見舞いに来た人間として――或は、見舞いよりは看取りかもしれないが――、雨之宮は気力を奮い、寝室へと入った。
布団の傍に跪き、目を閉じたままの高山に声をかける。
「高山、…高山、僕だよ」
「…」
無駄だとは分かっていても、一種の見せかけをしなければならない場面であった。
無論悲しくないわけではない。だが、やはり驚きが先に来て、うまく他の感情を練りだせないのだ。かといって、平常心すぎれば心が鬼であると疑われるだろう。
雨之宮は、その後5分ほどに渡って、友を労わる者として及第点と言える嘆きを見せ、ようやく巴と向き合った。
「いつ、どうしてですか」
最も聞きたいことであった。
と萌は、彼女もまた兄の傍らに正座したまま、口元に手を当てる。
「…分かりません。ある時ふと、体調の不良を訴えました。この人はそういったことはやせ我慢する気質の方でしたから、とても珍しく…そのうち、咳き込むようになり、熱が…ひかなくなり…。…もう、殆ど何も食べなくなってから、5日になります」
すん、と巴は鼻をすすった。
まるでもう彼が死んだような言い方になったな、と雨之宮は思った。
しかし、実際高山の状態はもう、いつあちらとこちらの境界線を越えるか、残りの一歩を躊躇っているような具合なのだろう。
雨之宮は、朝顔が描かれた掛け布団越しに、高山の身体を撫でた。丁寧に、丁寧に、労わった。

ふと、高山が呻いた。
それを見た雨之宮は、一瞬驚いて声をあげたが、巴の顔を見るとすぐに、これは別に再起の可能性ではなく、病床に倒れた彼にとってよくある事なのだ、と気づいた。
「よく、呻くのです」
巴が静かに言った。
「そして、何かを夢うつつの中で読み上げます。毎回毎回、きっちりと間違いなく。頭に何度も焼き付けたことなのでしょう、人の名前を、何十人も、何十人も、羅列するのです。呻きながら、ずっと」
雨之宮は眉をひそめた。巴は、高山の額に浮いた汗をハンカチでふき取り、またもとの位置に戻って正座し、雨之宮を見上げた。
「最初は家族の誰も、兄が呻きながら羅列する名前が誰か分かりませんでした。…けれど、私、…兄の書類を片付けているとき、…見てしまって、分かりました」
その一瞬、確かに妹は兄を睨みつけた。下衆な虫けらを見る目で、兄を見た。そこには、怒り、憤り、そして一種の哀れみがこめられていた。雨之宮は、思わず自分の服の袖口をぐっと握り締め、次の言葉を待った。
「…兄がお金を儲ける為に、騙して裏切り、ひどい侮辱をした人たちの名前でした。私も家族も、兄がどんな事をしてあんな大きなお金を得ていたか知らなかった、けれど、それが分かって、…こんな時に分かって…。…それがもう、ただ、ただ…」
と萌はその顔を、白い両手で覆った。
「ただ、恥なのです…」

すん、すん、と嘆く声が、部屋を満たした。
可憐な妹の泣いている様が、しかしその兄の死を嘆く、という動機からではないことを、その違和感を、奇妙さを、雨之宮は痛く感じていた。

「ねぇ、雨之宮さん」
粗方泣き上げた巴が、絞るような声で言った。
「兄は、どこへいくのでしょうか」
そしてまた、すん、と鼻をすする。巴は続けた。
「私、人って死んだら死んだだけ、とは思えないのです。…死んだ後も、その後の暮らしがあると思う。でも、罪人が死後ものうのうと幸せな生活を送るなんて道理、きっと適わない。…兄は、…兄は…」
縋るような彼女の眼を、雨之宮は受け流した。震えながら限られた呼吸を続ける高山に目をやり、そしてまた、泣き腫らした少女の目を見る。
障子の影が、くっきりとした形を見せていた。外では、ヒグラシが鳴いている。

雨之宮は言った。
「…いくべき所に」

すん、と鼻をすする音が響いた。



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