「この間の台風は酷かった」
話題が無くて、男は今日何度目か分からない天候ネタを持ち出した。オレンジを基調としたライトの下、げっそりした頬の凹凸がより濃く見える。
「そうですねぇ」
バーテンダーの女は軽く答えた。何か続く話題を探そうと思ったらしいが、別の客に呼ばれ、軽く一礼してカウンターの中を滑るように去って行ってしまった。後には、男の影だけが寂しく残る。
男は、表面に滴が付着したグラスを、摘まむようにして持ち上げた。
人生が道だというなら、男の道は今、崖の際に差し掛かっていた。ハンドルを誤れば、暗い谷底が待っている。雑草も無く、温かみもない、終わりしかない、その道のほんの少し手前。男の足元に、黒い細身のビジネス鞄がくたりと萎えたように傾いていた。
男はグラスを持ちながら、中の酒には口をつけていなかった。戯れに指先を揺らめかせると、氷がからんからんと音を立てる。店の中に流れている曲が、ボサノバからブルースに変わった。
「もう少し薄まったら」
男は、グラスを見つめた。
「そうしたら、飲もうか」
初めから水割りにすればよかった、などと価値もない後悔がやってくる。彼がウイスキーのロックを自宅や最寄りの店で嗜む時、その味は――もう少し、喉に優しく薄いのだ。
それに、この店は空調が聞きすぎている、と男は思った。まるで、喉を傷めろと言わんばかりの…。
からん、と氷が鳴く。男は戯れに、まだ濃いであろう酒を一口煽った。舌が焼ける。喉が熱くなり、すぐに冷める。上顎の内側に、濃い香りがこびり付いた。
男は軽く咳ばらいをした。一口目よりは――油断しきって、この香りばかり強い濃い酒の洗礼を受けるまでは――少しマシになっているが、好みになるまで、もう少し、もう少しといったところだった。
 男は首を傾げた。視界がぼやけ、黒い店内にオレンジ色の6角形の光が舞い飛ぶ。
「この氷が薄まるまで、俺はいつまで待っていよう」
ただじっと、気温に習って氷が溶け、口に飛び込んでくる味が緩くなることを願う時間。男はふと、この店の扉を出ても、この時間が続くような気がして、ぞくりとした。
 ただひたすら耐える耐える。薄まるまで、薄まるまで。
その時間を引き延ばしただけの人生が、扉を開けても、なお。
男は、自分の目の前にある道の全貌を遠くまで見渡したような不吉な気持ちに襲われ、逃げるようにグラスを煽り、むせて咳き込んだ。咳き込みながら、やはり空調が効きすぎている、と壁の上のエアコンを睨んだ。
寒気が止まらない、止まらない夜だった。




2012年 6月25日 に書き終り

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