夢の温室

  
 君は、あの温室を知っているだろうか。
それは、長く長く、私の少年時代にのしかかる、巨大な人工物のことだ。
この街のどこかにあるはずだが、もう私は覚えていない。

 あの頃の私といえば、悲惨だった。何せ、服を着ていなかったのだ。
着ていたのは、“ボロ”だった。かろうじて布と布とを繋ぎあわせて、なんとか服のようなものを保っているもの。それを着させられていた。
君も知っているだろうが、私は兄弟の中でも末っ子だったから、兄がお下がりでもらったものをさらに着古してボロボロにしたものをお下がりでもらっていたのだ。
ズボンも破れていないものは一つもなかったし、靴はほんの少しの雨ですぐに踝までグショグショになる有様だった。

 当然、自分専用の遊び道具もないし、公園に遊びに行ったとしても、兄の友達のサンドバッグにされるのが良いオチだった。
私は灰色の街の中で、1人孤独だった。風は容赦なく私の肌を突き刺すし、犬や猫やその辺の鳥でさえ、私をあざ笑っている気がした。誰もかれも、私に興味が無いように思えた。私は人の目を恐れた。人は、私を見下すだろう。人間の眼が、私が何か失敗するところを必ずどこかで見ている、そういう不安に襲われ、よく声をあげて泣いたものだ。もちろん、兄たちの耳に届かない、押し入れや猫の糞の匂いのする庭の隅でね。

今の私にはまったく想像がつかない事だと、君は笑うだろう。
あるいは私が君をだましている、とさえ思うかもしれない。
戯れに貧乏でどうしようもなかった頃の事を書いて、何か同情でも買おうとしているのか、と。
そんなことはないのだ。私は、…あくまで事実を述べている。

 あの温室の事は、突発的に思い出したわけではない。
最近、やたらあの温室の様子が――花たちの様子が、脳裏をよぎるのだ。私はこれを、何かの前兆だと思っている。
肝心の、それが何の前兆なのか、それが分かれば幸いなのだが。

 遊び場もなく、公園へも行けない私のもっぱらの趣味は、散歩だった。それは、簡素で甘美な趣味だったと言える。
灰色に塗り込められた街を適当に歩き、見たことのない路地があれば、そこへ潜り込んであらゆるものを観察する。観察の対象はさまざまだった。人、動物、無機質な物体。時折、知らない人の庭先に潜り込んでしまい、子供では見てはいけないものを見てしまう事もしばしばだった。あれは、いわゆるメロドラマの一部を切り取った光景だったね。
街というのは面白いもので、毎日通っているはずの道でも、何日か経つと光景が変わっていて、何度でも、何度でも、まるで新しく通る道のように思い込むことができる。
視点を変えれば尚更だ。
私は散歩を幾度も楽しむため、今日は猫さがし、明日は雑草探し、次の日は地面の石畳をある一定の法則に従って踏みつけながら、と、様々なカテゴリーにわけて同じ道を歩いていた。
そうして全く違う道を発掘しながら歩いていると、私は、この街は日に日に姿を変え、私の目の前に壁や道を形成し、私をからかって遊んでいるのではないか、と考えた。そして、それを盲目的に信じていた。今でも、道を歩いていてそう思ってしまうことがたびたびある。

そういう風に街を歩いて、私はある時奇妙な路地を見つけた。どこが奇妙かと言われれば、例えばその路地の壁に無数のお面がぶら下がっていた事、猫がやたらと多く鳴いていたこと、地面に女の子の衣服がやたら落ちていたことなどがその内の1つだ。とはいえ、古い記憶だから…何が正しいかは、君が適当に判断してくれると嬉しいよ。

その路地の入口に立つと、向こう側からふわりと風が吹いてきた。それは確かに覚えている。そして私はその風に手を引かれて、奥へ奥へと入っていったのだ。

 その路地を暫く歩くと、広い場所に出た。そこに、冒頭に書いた温室があった。
今考えると、あの温室の大きさは、街の裏の一角に納まるにしては少し大きすぎる気はしたが、子供の頃に見たものというのは大体、実際の物より大きく見えるものだね。そういうことなのだろう、きっと。

温室の入口の正面に立つと、中の様子がぼやけて見えた。天井まで届く木や、祭壇のように積み上げられた花の鉢が印象的だった。私は透明の扉を押して、中へ入った。

 中は、休み時間の教室のように話声で満ちていた。というのは、花が喋っていたからだ。
…あれは夢だったのだろうか。君はどう思う、私はあれを現実だと認識しているが、きちんと認識できていただろうか。
とにかく、温室の中のあらゆる場所に置かれた鉢には、様々な形、色の花が植わっていて、どれもお喋りだった。今考えると…そう、不思議なことかもしれない。
黄色の針金草、ピンクのおとぎ草、オレンジと赤のマリーフラワー、白とピンクと黄色を足した中間色のガラスオクタは満開で床にしなだれていたし、ツル性のドクショクカブラが壁一面を這っているのも、印象的だった。
私は暫く温室中を歩いて、それらの花一つ一つを観察した。私が通りがかるたび、花たちは年頃の乙女のように、口元をギザギザした葉で覆い、静かにあどけないクスクス笑いをしてみせた。さわさわ、さわさわ、と音を立てるんだ。そうして私が通り過ぎると、また好き勝手に何かを喋りだす。
何といっているのかはよく分からないが、甲高いキィキィという音を立てている花が多かった。大抵そういう花の色は、ピンクだった。

そうして円形の温室の中をぐるりと一周回って帰ってきたとき、私は足元に大きなジョウロが落ちていることに気づいたんだ。透明な青いジョウロで、持つだけできらきらと水が零れた。
幸い温室内に古びた蛇口と水道があって、それをひねると、水がはらはらと地面のタイルに落ちた。タイルは水を吸い込まず、ぷっくりした水滴をその表面に散らした。

私はジョウロの中に水をくみ、花に与えた。あの時はどうしてそうしたのか、さっぱり分からない。とにかく、体が動いていた、意思はなかった。そういった気分だったろうか。
例えば、可愛らしい猫を街中で見かけたとき、無意識に警戒をとき、「こっちにおいで」と声をかけるように、その花たちにジョウロで水を与え愛撫することは、当然のことのように思えたのだ。

水をかけると、花たちは身を震わせ、きゃっきゃと喜んだ。私は、水滴を滴らせ、天井から射す光を浴びて輝くあの花たちを、愛おしく思った。その時、確かに私は花と意思疎通をしていたのだ。今では夢のような出来事でも、あの時の私にとっては真実だった。そうとしか、言いようのないことだ。

こんな事には、君も幾つか心当たりがあるのではないか?

子供の頃の、夢にしか思えない不可思議な現象。しかし現実に起こったこととしか思えない、その現象。改めて思い出そうとしても、水の底から水面を見上げた時のように、おぼろげにしか思い出せない、輪郭さえはっきりしない、あの記憶たちだ。
それらは、普段は忘れていたとしても、頭に根強く残るものだろう?

今の私の頭にも、あの温室の独特の空気、肉厚の葉、内側から見た温室の骨組みが、根深く残っている。それはふとした瞬間…道を歩いているとき、書類を机に置いて眼鏡を外した時、窓の外を覗いて犬を散歩している女性を見かけたとき、ふと蘇ってくる。
あの光景、匂い、水の音、ジョウロの重さ、蛇口の錆びた感触、花たちの囁き声。

 その後、私は何度も何度もあの温室へ足を運んだ。何故か毎回道に迷うことはなく、温室はあるべき場所で、あの路地の奥で、待っていてくれているようだった。
私はその温室に行き、ジョウロを使って花や木に水を与えた。そうして、花たちが楽しそうに茎や葉を揺らすのを見て、妙な満足感を得て、胸をはって帰っていった。
恥を覚悟で書くならば、あの時の私は、「あの花たちは、私が世話しなければ生きられない」という快感に酔っていたのだ。もちろん、あの年齢の子供がそんな快感を具体的に感じ取っているわけはないのだが、無意識のうちに責任感と支配欲を取り違えていた可能性はありうる。大いに、ありうるのだ。
彼女たちは、花は、私の灰色の空のような鬱屈した心を晴れやかにすると同時に、私の中のどこかの感覚を確実に麻痺させていたのだった。

 そんな日々が幾らか続いて、私はもう日中のほとんど、時間の許す限り花たちの傍にいて、彼らを観察していた。私は彼女たちと友達になった気分でいた。花たちはよく笑い、よく喋り、またつまらないことでよく笑った。私もつられて笑顔になった。

 ある寒い日のことだった。私は、兄に殴られ、顔を腫らしていた。日常でよくある事だったが、その日の一発は強烈だったのだ。
それでも私は、あの温室へ向かった。いつもの角を曲がり、お面のある路地へ。
そうしていつものようにジョウロを持ったが、その日は重いジョウロを持つだけで精一杯だった。
幾つかの鉢に水を与えることは出来たものの、温室の内部全てに与えることは無理だった。肩が外れそうなほど痛く、ジョウロを離すと、指が痙攣した。

私は花たちに謝り、その日は全ての花の世話をせず、一部だけを愛で、温室を後にした。申し訳ないとは思ったが、痛みと寒さには変えられなかったのだ。

 花たちの態度が変わったのは、それからだった。
温室に入った瞬間、それが分かった。いつもの、乙女のような笑い声や、小鳥のようなさえずりのような明るい声が聞こえず、あるのは、ただのヒソヒソとした、悪意ある囁き声だったのだ。
私は何かあったのだろうかと思いながら、ジョウロを手に花たちに近寄った。花たちが水を嫌がる事はなかった。しかし、透明な水を受けても、喜びもせず、笑いもしない。
ただ、私が通り過ぎた後、忍んだようなクスクス笑いだけが、こっそりどこかから聞こえるのみだった。何かを非難する調子の花の声、それに同調するケラケラした笑い声、私が戸惑えば戸惑う程、また嘲笑が酷くなる。茎を揺さぶり、葉をひらひらさせ、さもおかしそうに笑い転げる姿。
私はジョウロを持ったまま、遠慮がちに花たちに尋ねた。何かあったのか、と。
しかし私が話しかけた花は、何も喋らなかった。ぴくりともせず、無言だった。その間に、またどこかから含み笑いが聞こえてくる。
それが何度も繰り返され、私の中の感情が煮立った。

私はジョウロを投げ捨て、花たちに向かって叫んだ。一体何がおかしいのか、と。

しかし花たちは沈黙し、何も答えなかった。ただ、私の目の届かない範囲にいる花たちが、くすくす、と笑っている、そのおぼろげな声だけが聞こえる。どこかから聞こえる。視界が揺らめいた。

私はジョウロを投げ捨てた。空になったジョウロは、空虚な音をたてながら、タイルの上を何度か跳ねて転がった。

何だというのだ、何だというのだ。
私は頭をかきむしり、身をヒクヒクと躍らせる花たちを引きちぎりたい衝動に駆られた。その茎を掴んでむしり取って、古びた靴の底で踏みにじりたかった。

けれど何故か、その衝動を実行に移すことはできなかった。手が震え、憤りのない感情が栓をされ、爆発しそうだった。

私は温室の入口に置いてあった空の鉢をいくつか蹴とばした。からんからん、と幾つかは転がり、一つはがしゃんと割れて破片を散らした。
一段と大きな笑い声があがった。ケタケタ、カラカラ、クスクス。

私はまっすぐ温室から出て、力任せに扉を閉めた。背後から、花たちのコロコロとした笑い声が聞こえてくるようだった。

それっきり、温室には行っていない。あの路地まで行こうとする努力は何度かしたものの、どういう風に道を曲がっても、あのお面たちが待ち受ける路地が、あの温室が、私を迎え入れることはなかったのだ。

私が行かなくなったあの温室の花たちはどうなったか。たまに、その末が気になり、よぎることがある。枯れたのだろうか、それとも変わらずに、時の止まったようなあの温室の中で噂話をしては笑い声をあげているのだろうか。

私の脳みそをちらつく温室の思い出が、君にも少し分かってもらえただろうか。
ねぇ、君がもしこの温室に心当たりがあり、それを見つけられたなら――

(此処で途切れている)






2012年 6月14日 に書き終り

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