硝子の婚姻 それはまだ、人形に命がある頃のお話でした。 榎本 幸(えのもと ゆき)という青年は、近所でも評判の大変な好青年でしたが、幼い頃顔に負った傷のせいで、そろそろ、という年になっても独り身でいました。彼の父親で高名な書家でもある榎本 鷹山(えのもと ようざん)は、何とか彼に嫁を与えてやりたいと願い、彼の知り合いである人形師に、命を持った花嫁人形を依頼したのです。 6月の、酷い大雨が降った次の日。前日まで空を覆っていた薄暗い雲は全て消し飛び、心も晴々とする晴天の日でした。 この日は、幸と人形との初めての顔合わせの日でした。幸はある料亭の奥まった部屋で、慣れない晴れ着を着て、ちんと正座して緊張しておりました。 緊張しているのは幸だけではなく、彼の後ろに控えている父、鷹山もまた、どこかそわそわしている様子でした。 「花嫁人形というのは…」 ふいに、父、鷹山が口を開きました。 「昔は、それほど珍しくなかった風習だそうだ。子宝に恵まれなかった領主が人形をめとり、繁栄を――」 「ええ」 幸は俯き、畳の目を指先でなぞっていました。 「…子宝の方は兄にあるから、僕は安心して人形を娶っていい、ということでしょう」 「幸、私はそんなことは言っていない。あまり気にやまず…」 「やんでいませんよ」 顔をあげた雪の表情は、実際卑屈なものなどなく、言いつけや用事を頼まれたときコクコクと素直に頷くときと同じ、晴れやかなものでした。 「たとえ人形でも、それが嫁に居る事で親父の身が安泰なら――」 その時2人は確かに、ひたひたと近づいてくる足音を聞きました。会話はふつりと途切れ、2人とも、襟を正したり袖を引っ張ったりして、正座の形を直し、正面を向きなおしました。 やがて、足音が部屋の前で止まります。数秒の間があり、はたして、からり、と廊下に通じる障子が開きました。若干の光が部屋に刺します。 幸は、そちらの方へ顔を向けました。 先頭に立って入ってきたのは、厳格な顔つきをした老人でした。ぎらぎら光る目、少し屈めた体、樫の枝のようなごつごつした手が、彼が洗練された職人であることを表しています。幸は、彼が父の雇った人形師、4代目不達 八雲(ふたつ やくも)なのだな、と察しました。 八雲はまず、鷹山と幸とに2度頭を下げました。幸達もそれを返します。 「花嫁人形をお納めに参りました」 慣れたお決まりの言葉なのか、八雲のしわがれた声が簡素にそう告げました。幸は、ごくりと唾をのみました。 「ありがとうございます」 「…では」 八雲は入口の方へ戻りますと、廊下に向かって手招きをしました。その手つきが妙に妖怪じみた怪しい動きでしたので、幸はなんだかその動きに自分が引き寄せられそうな気配さえ感じました。 とかく、職人の手とはああいうものなのか、と何度か瞬きをしていると、 「失礼します」 という言葉と共に、とうとう、その人形が部屋に入ってきたのです。 身長は、幸より少し小柄という程度でしょうか。腰まで伸びた艶やかな黒髪は、見ただけでもその手触りがさらさらしている事が分かるほど軽やかで、祝い事の為なのか、赤いちりめんの紐でところどころ結んであります。肌は白く、少し大きめの目を縁取る睫は驚くほど長く、唇に施された紅は、ふっくらとしていて小さく見えました。毬と華が描かれた赤い振袖を着ていて、歩くたびにその裾や袖が揺れる様子は、風に揺れる花のようで、その1歩1歩が、魅力を振りまく仕草のようです。少し浮世離れした美しさではありますが、しかし、人間と変わりないほどの自然な少女の姿でした。 幸は一瞬、その美しさに惚れ惚れとし、これは八雲や父の悪戯で、実は彼女は人間なのではないか、という考えさえ思いつき、そうだとすれば自分は生身の――しかもこんなに美しい――相手に何も話せなくなってしまう、と混乱してしまいました。しかし、彼女が彼らの卓の対面の席にそっと正座をする仕草を見ていると、表情が一定であること、動きがぎこちないこと、それに、袖の端からちらりと見える手首の関節が人形のそれであることを見とり、あっという間に、高揚した気持ちが冷えていくのを感じました。 人形は、顔をそっとあげ、幸を窺っていました。幸も一瞬彼女を見つめたものの、 「石楠花(しゃくなげ)と名付けました」 と、八雲が紹介を始めたため、すぐにそちらに目を向けました。八雲は、正座した膝に拳を握り、祝詞をあげるように厳かに言葉を続けます。 「形を組み上げましてから命を吹き込みまして、3週ほど経ちます。あらゆるものを珍しがる子供のような気質に育ちました。読書を好み、よく問答を問いかけます。是非、そういったお戯れごとにお付き合い願えればと思います」 そういって腰を曲げて深々とお辞儀をするものですから、幸の方も、応えます。 「本を、読むのですか」 八雲が頷き、言います。 「よく読みます」 「どんな本を」 八雲の目が、ちらりと石楠花の方に放られました。視線を受けた石楠花は、ころころとした高い声で、 「歴史書も好きですが、哲学書も好きにございます。論文を取り寄せることもありますの。新聞は、朝の日課ですわ」 と答えました。その声は、そのしっとりした雰囲気にしては少し幼すぎるような印象であはりましたが、きんきん響く不快なものではなく、むしろ八雲の紹介通り、少女らしい声なのでありました。 それにしても、この人形は存外インテリのようでした。ともすると、その辺りを歩いている女学生より知識は確かかもしれません。 幸は、毎朝新聞を読むというこの人形をまじまじと見つめました。なんだか、“ごっこ”のようで、奇妙な気持ちです。 ししおどしの音が聞こえるこの高級な部屋に集められ、飾り立てたインテリな人形と見合いをしている自分を、どこか天井の近く辺りから見ているもう1人の自分がいるようでした。それは、酷く滑稽に思え、しかし自分の後ろで見守っている父は本気なのだし、それに丹精を込めて作った人形を紹介している八雲にもまた、寸分の冗談もあるはずはないのだし、何より何より、石楠花の純粋そうな瞳は、幸を結婚の相手として認識し、じぃっとけなげに幸を見つめ続けているのです。 幸は、その熱い視線を感じてはいるものの、彼女と目線を合わせることはありませんでした。彼女の美しさ以上に、彼女の手首の関節が、変わらない表情が、綺麗で耽美であればあるほど、ぞっと恐ろしく思えたのです。 すっと降りた沈黙を掻くように、鷹山が言いました。 「うちの幸も、本が好きなのです。休日にはよく読みますな」 「まぁ、そうなのですか」 石楠花は嬉しそうに言いました。 「どんな本をお読みに?」 そう言って首を傾げる仕草をすると、横髪がはらりと無機質に落ちます。幸はその動作を見ながら、ううん、と考える間を空けました。 「時代小説に、探偵小説も好きですよ」 言ってから、幸は窺うように付け足しました。 「探偵小説は、ご存じですか」 「存じていますわ。推理をするものでしょう。わたくし先日、虎ヶ原 芳次郎の短編集を読みました。あれも探偵小説でしょう。…“赤いさざ波と去る女”とか、“密の瓜”とか」 「中々…」幸は言葉を選んだ。「渋いですね」 実際、虎ヶ原の小説は回りくどい文章が多く、物語の確信にたどり着くまでが長くて、幸自身、いくつかの話を手にとってはみたものの、齧って終わってしまったものが多かったのです。 「渋いからとか選り好みできませんわ。手近なものがそれしかないのですもの」 石楠花が少し不満そうにそう言うと、隣に居た八雲が苦笑しました。幸は、この場で初めてこの老人が微笑む姿を見たようでした。 「なんでも読ませろ、ときかないものでしてな」 「本はとても面白いわ。表紙を開くときは、何か大切な物の紐を解くときのようで、読んでいる間は素敵な岩場を掘っているようで、読み終わったときは、少し切ないわ。でも、まだ表紙を開いていない本があると、それでまた嬉しくなるわ。…そうでしょう?」 石楠花の比喩表現を用いた言葉に、幸はふいをつかれたような感覚で、しかし同意しました。 「ええ、そう思います」 幸は、八雲や鷹山を交えての最近出版された本の話をしながら、人形とは存外、深いところのあるものだな、と考えていました。 料亭の庭先で、ぴぃい、と甲高い鳥の鳴き声が響いていました。 やがて、茶と茶菓子が運ばれてきました。橙色の着物を着た女中が、ちらりと石楠花を見て捉えて、「あら素敵なお嬢様」と言うのを、その場の誰もが――石楠花以外が――愛想笑いや曖昧な微笑で返します。 運ばれた茶を飲みながら再び談笑する間に、八雲は何度も、「きっと上手くいくでしょう、ええ、きっと」と頷き、鷹山もまた「そう祈りましょう」と力強く答え、幸はというと、「ええ、よろしくお願いします」と、薄っぺらく微笑んで見せるばかりなのでした。 ふと、幸は石楠花が茶にも茶菓子にも手を付けていないことに気づきました。 会話の合間にその視線に気づいた石楠花が、 「私の分を誰か飲んでくださるかしら」 と控えめに言いましたので、八雲が前に出てよしよしと言いつつ、 「まあ、残しておけばいいだろう」 と答えました。 その時、石楠花の目は確かに薄ぼんやりと濁り、深い色を放ちました。それを目にした幸は、初めて彼女が人形であることを意識させられた気持ちでした。 例え、命を吹き込まれ、歩き、喋り、本を読んで知識を取り入れる事が出来ても、その身体に人間のような胃や腸はないのですから、彼女は金平糖の一粒も口にいれることができないのです。 幸は、彼女の瞳の色を空虚だと思いました。彼女の硝子の目は確かに、綺麗で清純な池の表面のように透き通っているのですが、時折虚ろに見えるのです。その時、彼女は人間も人形も越えた別の世界を見ているような、そんな表情をしていました。 もちろんそれは、次の瞬間には消えてしまっているような些細な光の加減なのです。しかし幸は、彼女の高低差のある感情と表情の表し方を、興味深いと感じました。 やがて話題も尽きた頃、鷹山が気を利かせたような口調で――しかし鷹山はあらかじめこういう予定にすることを決めていたのでしょう――言いました。 「少し、表を散歩してみてはどうかね」 幸は顔をあげました。鷹山が八雲の方を見て、 「どうです、よいでしょう」 と続けますと、八雲もあらかじめこうなる見当をつけていた様子で、 「ええ、構いません。今日は、よい天気ですからな。…ぬかるみに気を付けてさえいれば、外を歩くことも何も問題はありません」 「ということだ」 鷹山が幸を見て言い、頷きました。 幸は石楠花の方を見ました。石楠花も、幸を見ていました。 「行きますか」 幸が優しく言って、石楠花もまた少し頷きました。 「楽しみですわ」 幸がすっと立ち上がり、石楠花は卓に手を付き、腰を持ち上げ、ゆっくり立ちます。途中、きしきし、と関節の軋む音が聞こえ、幸はそれを、不気味半分、痛ましさ半分に捉えました。 幸が部屋を出て行くと、石楠花もひっそりついてきました。部屋の中から八雲が、 「ぬかるみには本当に気をつけるのだよ」 と、見送るように声をかけました。石楠花は何も答えず、ただ、ひっそり、ひっそり、幸の後ろについて歩きました。 料亭の表は、日の光が地面に反射して、白く輝いていました。あまり人が多く通る道ではなく、道と道との間のはざまに、こっそり門を構えたい店が連なる通りでした。 日差しが強いせいか、家々の屋根がくっきりとその形の影をつくり、人を警戒しない猫が、ふわふわと欠伸などをしながら軒下で寝転がっている様子が、絵巻物の中の朗らかな日の描写のようです。 「あの、幸様」 歩き出そうとした幸を、石楠花がふと止めました。 「なんです?」 振り返ると、石楠花は朱色のぽっくり下駄の鼻緒を弄っていました。料亭の玄関でも、少し戸惑っていたようなのです。 「少々お時間をくださいませ」 ぎこちなく屈んでいる石楠花に近づき、幸は言いました。 「よろしければ、鞄をお持ちしましょうか」 石楠花は、自分の片手を塞いでいる小物入れを見て、あら、と言いました。そうして、ぎっぎっ、と顔をあげます。 「お願いできますかしら」 「ええ」 幸は頷き、彼女の手から鞄を受け取ろうとしました。 その時、たまたま、彼女の白い指先に幸の手が触れました。 ひやり、とした感触。 蒸し暑いほどの気温の中で、水の中で冷やしていた食器のように、それは幸の指をぴりりと驚かせました。 慌てて指を引っ込めた幸は、どっ、どっ、と心臓が跳ねるのを感じながら、よくよく自分に言い聞かせました。 そうだ、彼女は人形だった、と。 そんな幸の様子を見て、石楠花は、 「気になさらないでくださいませ」 ささっとぽっくり下駄の履き心地を整え、ぎしぎしと体勢を元の立ち姿に戻しました。 「お人形に触れるのは初めてなのでしょう? みなさん、緊張されますわ」 そして、何事もなかったかのように、幸の隣に並びます。 「さ、参りましょう」 そう告げるその唇も、頬も、全てふっくらした少女の瑞々しい肌に思われますが、触ればやはり、先ほどの指先のように冷たいのでしょう。 幸は、それを確かめたいような、触れたくないような、半端な気持ちを地面に引きずったまま、彼女と歩き出しました。 何処へ行く、とはとくに決めていませんでした。 ただあまり、人通りの多いところには行きたくありませんでしたし、それを石楠花に告げますと、 「そうでしょう、緊張しますものね」 とまた、緊張という言葉を使いました。幸は曖昧に頷き、暗くならない静かな道を、例えば桜の植わった川沿いや、神社の鳥居の前を横切る道、気まぐれにくねる古い道を、ぽつぽつと歩きました。 歩きながら二人は、緊張をほどくように桜の咲く時期の話や、八雲の元に訪れる珍妙な客の話などを交わしました。その合間に、野良の犬や猫を見かけては、立ち止まって眺めました。特に石楠花は、着物が汚れそうになるのも構わず野良犬に近づいていくので、幸がやんわりと止めることもしばしばでした。 ――彼女は人形なのだろうか。 幸は、石楠花の背中を眺めながら、ふとそんな事を考えてしまうのでした。そういった事を考え出しますと、人形と人間の境目とはなんだろう、と、そんな根本的なことまで考えてしまい、妙な顔をしているところを、 「どうしましたの」 と石楠花に覗き込まれてしまうのでした。 「あ、いや、なんでもありません。帯の形が綺麗ですね」 「八雲さんは器用ですわ」 「あ、では行きましょう。こちらの方には、古い集会所などがありますよ」 「あら素敵」 やがて、道の半分が家々の日陰になった狭い道に入った折、石楠花が声を上げました。 「まあ、蜂の巣ですわ、大きい」 見れば、それは古くて大きな家屋の玄関につりさげられた、杉玉でした。吊るすときは草の色をして緑なのですが、時間の経過と共に、蜂の巣のような形状になるのです。 それを巨大な蜂の巣と思い、口元に両手を当ててじりじりと下がっている石楠花を見て、それがたとえ人形といえども笑うのは失礼です。幸はそう思い、必至で笑いを堪える努力をしながら、彼女にそれを教えました。 しかし、石楠花が胸に手をあて、 「あまりに大きい巣に見えましたから、なんて危険なものを放置しているのでしょう、と不安と憤りを思いましたわ」 と真面目に答えるので、幸はとうとう堪えきれなくなり、腹を抑えてその場にうずくまってしまいました。後から後から押し寄せてくる笑いの波を抑えようとするたび、喉がヒクヒクして、抑えるどころではなくなってしまうのです。 また、やっと落ち着きかけたところで、石楠花が幸の丸めた背中に手をあて、 「何か申し訳ないことをしたみたいで…」 と神妙に謝るので、蜂の巣に驚いたときの表情とそれが重なり、また笑いがこみあげてくるのでした。 数分後、はぁ、はぁ、と息を切らしながら立ち上がった幸の様子は、まるで通りのあちらからこちらを全力で走り抜けたような様子でした。額には軽く汗が浮かんでいます。 「そんなに面白いことでしたの?」 「いえ…すみま、せん…」 「構いませんわ」 杉玉はともかく、石楠花の興味はその古い家屋に向けられたようです。茶色の木材で建てられた、2階建ての建物。格子の窓と、無造作に置かれた樽や古そうな臼が印象的でした。 「此処は何をしているところですの?」 石楠花が幸に問いました。 「此処は、酒蔵です。…でも、かなり昔にもう廃業してしまったようで、建物だけが残っているのです」 「まあ、お酒を入れていた場所ですの」 「ええ」 石楠花は興味深そうにあちらこちらを眺め、ついっと近づいて格子越しに中の様子を窺おうとさえしました。 「気に入りましたわ」 「そうですか」 簡単に答え、幸はふと、過去のこの場所に思いを馳せました。古い記憶が、活動写真のように蘇ります。 「この店の酒の名を書く仕事が、親父に依頼されことがありました」 幸がぽつりと言うと、石楠花は格子から目を離して振り返り、幸の方を硝子の眼でじっと見ました。 「親父は僕に、その仕事をやれ、と言いました。それが、僕にとって最初の書の仕事でした。…書いたあと、自分の担当した酒の銘柄を、何度も何度も用事もないのに此処に訪れては、じろじろ眺めて…」 石楠花が首をかしげました。 「よい出来栄えでしたの?」 幸は首の後ろをかきながら、 「当時は良いと思っていましたが、…今思うと…」 とまで答え、後に続く言葉を飲み込み、石楠花を見つめました。石楠花はこくこくと何かを頷き、 「でもきっとたくさんの人がその字を愛してくれたでしょう」 と、何かの確信を持って言いました。幸は、極上の絹に包まれたような気分で、ふっと笑いました。 「そろそろ、親父たちの所へ戻りましょうか」 「ええ」 そう言って歩き出してから少し経ちますと、石楠花は何か気になる様子で、酒造沿いの道をあちらこちら、顔を向けて観察し始めました。建物の隅、店の看板、道に落ちている小石から、影と日向の境目まで、あらゆる部分が気になるようでした。 彼女自身は何気ないことのようにそう観察しているようですが、ここまでの散歩の中でそういった様子を彼女が見せることはなかったので、人間の街を珍しがっている、というわけでもないようなのです。 幸は石楠花に尋ねました。 「どうして、そんなにあちらこちらを見ているのですか?」 幸の問いに対して、石楠花は暫く黙っていました。けれどそれは、無視などではなく、彼女が何か考えをまとめようとしているのだろう、と表情を見て察し、幸は暫く黙っていました。 「…この道は、狭くて心地のよい道ですから」 石楠花がぽつりと言いました。 「ええ」 確かに、道の幅は、大人が2人寝転がったらそれで塞がってしまうような小道です。しかし、湿気でじめじめしていたり、ごみが転がっているなどということはなく、小ぶりで質素な、ひっそりとした道なのでした。 石楠花は、硝子の瞳に小さな街の様子を映しながら、続けました。 「今日はお天気もいいですし、…こんな道を歩いていますと、…古い事を思い出しますの」 「古い事?」 幸の声に、石楠花は笑いを含めて言いました。 「命を吹き込まれて3週間の私に古い事とは、あまり似合わないと思いますか?」 「あ、いや…」 「でも、私にも古い記憶がありますの」 彼女がぎこちなく歩くたび、しゅっと袖が揺れます。幸は、その単調な動きに目を向けながら、彼女の話を聞きました。 「それは、この道よりもっと狭い道ですわ。道の形があることは分かるのですけれど、とにかくきらきら眩しいんですの。白く、光る道。私、そこを泳ぐようにして歩いているんですの。…耳元は、うるさいぐらいに何かが鳴っているのですけれど、それが何なのかはさっぱりわかりません」 それを聞く幸の想像の中には、何故か広大な宇宙の様子が描かれていました。星が飛び交い、明滅して消える、広大な空。石楠花は話を続けました。 「そうして、光の道を掻いて、掻いて、あらゆる物を経て、私…目を覚ましましたら、寝台の上でした。そうして、八雲さんが私を覗き込んでいて、…私、命を得たことを知りました」 単調な足音が続き、鳥が屋根から飛び立ち、どこかでぴしゃんと窓が閉まりました。遠くから誰か知らない人たちがこちらへ歩いてきて、すれ違います。 幸はそんなごく普通の街の光景の中で、足元が地面から離れていくような、不思議な心地でいました。彼女が持っている古い記憶、それはまぎれもなく―― 「胎児の見た夢、か…」 石楠花は素直に頷きました。 「何冊かの哲学書、医学書でも読みましたわ。…あのきらきら光る道…その記憶…。…人形は不可思議な生き物、っていつも八雲さんが言っていますわ。きっとそのとおりね」 幸は、隣をひっそり歩く石楠花の横顔を眺めました。その上向きの鼻筋の造形美に、揺れる髪から漂う香炉の面影に、底深い硝子の眼に、気怠いような無邪気のような千の影を作る表情に、人間と少しも違わないながら人間ではないその境界線に、白い肌に、人形と言う生き物に、彼は魅入っていました。 そして、魅入っている自分がいるということも、頭の隅で意識していました。 道は、少し大きな道に続く十字路に差し掛かりました。人の流れも、少し増えたようです。 そこで石楠花が、自分の意思で立ち止まりました。幸もそれに合わせて足を止めました。 石楠花は言いました。 「でも、私が生まれたのは貴方の為。八雲さんが、貴方の為に私を作り、組み上げ、命を与え、私はそれを受け取りました。…光の先の道は、貴方だったということでしょうね」 それは、偉大な書物の最後の括りのようでした。実際、石楠花のその言い方は、敬愛する書物を朗読しているようでした。 幸は、彼女の顔を正面からじっくりと見ました。どうも彼女の頬が赤く染まっているように見え、彼は何ともいえない感情から微笑みました。 幸は目を閉じ、そよ、と吹く気持ちの良い風を感じました。そして目をあけ、彼女の手を取りました。 ひんやり、とした感触を確かめるように、彼は彼女の白い手を両手で包みました。 「どうぞ、末永く…」 幸がひっそり言いますと、石楠花は、 「人形の末は長いですわ」 と答えました。 道端の水たまりに午後のおだやかな街並みが映りこむ、よい日和のことでした。 |
2012年 6月13日 に書き終り