「ゆいちゃん 帰っておいで」

 ゆいちゃんは、白い部屋にいました。ひろくて、お掃除がされている部屋でした。ホテルのようでした。
白い床に落ちた自分の影は、ところどころ欠けていました。
「いつか、糊か何かを使って縫い直さなきゃ」
と、ゆいちゃんは思いました。

ゆいちゃんはエレベーターに乗りました。
水晶のように青いお姉さんが案内をしてくれました。

ゆいちゃんはエレベーターを降りました。
そこは、輝く広場でした。

天井が、きらきら光っています。
オレンジ色と白がチカチカ光っています。時々、ピンクが混ざります。眩しいものが、色んなところを飛んで、走っています。それはゆいちゃんの目の前にも飛んできました。
その広場はどこまでもどこまでも広く、透明の案内板が色んなところにぶら下がっていましたが、どれも外国の言葉が書いてあって読めませんでした。看板を照らす為に明々と瞬いた光が、部屋の端の闇まで飛んでいくと、ジュッと音を立てて消えてしまいます。それは、消えた花火をバケツに突っ込んだ時の音とそっくりでした。

そこは、沢山の棚が並ぶ場所でした。

外国の食器が、棚にたっぷりと並んでいます。どれも、手に取ると割れてしまいそう。でも、どの食器にも細かい絵が描いてあります。どうも、世界地図のようです。大陸同士が、お皿の上で好き勝手に動き回っています。それを、ピンクとオレンジを混ぜた色の光が交互に点滅して照らすので、目がくるくる回ってしまいそうです。

ゆいちゃんは、それをもっと近くで見たいと思いましたが、手を伸ばそうとすればするほど、棚はグングン天井まで伸びて行ってしまうのでした。

やがて、棚はとうとう天井を破って、緑色の空の遠いところまで伸びて行ってしまいました。緑色の平たいお空には、折り紙で作られたような四角い鳥の群れが、ぱたぱた、ぱたぱた、飛んでいました。

そんなお空の鳥の様子をぼんやり見ている間に、棚のせいで割れた天井のガラスの破片が、やはりオレンジや白やピンク色にぎらぎら光りながら、ゆいちゃんの頭や腕に降り注ぎました。
それは、晴れた日に見る雪の眩しさのようでした。実際その破片は、ゆいちゃんの体の近くまで落ちると、雪のように消えてしまうのです。よくよく見ると、それは紙くずのようなのでした。

やがて、破片の落ちるのが収まると、ゆいちゃんは歩きました。

ゆいちゃんの横を、反対方向に歩く人々は、どの人たちも不思議な格好をしていました。

砂の国の商人。
本を持った女の人。
マイクを持った若い男の人。

沢山の人が結衣ちゃんの隣を歩いて行きましたが、だれもゆいちゃんと目の合う人はいませんでした。

いっぱい歩くと、棚にあるものは動く食器ではなく、オルゴールになりました。
どれも、好き勝手な音を歌っています。
あちらでは、カエルの歌。
こちらでは、合唱の声。
澄みきった歌声が、わんわんと鳴り響きます。まるで、お風呂の中のようです。

どのオルゴールにも、動物や人の飾りがついています。
あちらには、とろんとした眼差しの猫の飾り。
こちらには、青いエプロンをつけた女の子と男の子。

ある一つのオルゴールが、ゆいちゃんをひきつけました。
ひまわりの飾りのついた、小さなオルゴールです。宝箱の形をしています。鍵穴の部分には、人の目の形がありました。まるで、世界を初めて見るような目つきで、色んなところをきょろきょろ見ています。
鍵穴の目と、ゆいちゃんの目が偶然合いました。
2人は暫く見つめあい、やがてゆいちゃんは、そのひまわりのオルゴールがとても欲しくなりました。けれど、そのオルゴールがあるのは、高い棚の一番上です。ゆいちゃんのお父さんが肩車をしてくれたとしても、まだまだ全然届かないのです。

爪先立ちになっても、後で叱られると分かっていて一番下の段に足をかけても、小さい手はオルゴールのある段に触ることすらできないのです。
ゆいちゃんは棚から降りて、辺りを見回しました。
近くに大人がたくさんいるので、ゆいちゃんはあのひまわりのオルゴールを取ってほしいと頼みましたが、大人は誰もかれも、忙しそうでした。
「カブ、カブ、カブ…」
大人は皆、何かを唱えながら片足で飛んで走り去っていきます。
「カブ、カブ、カブ…」
ゆいちゃんも大人の真似をして、片足で跳ねながら何かを唱えようとしてみましたが、喉が上手く使えませんでした。


いつの間にか、棚が無くなっていました。振り返るとまだそこにあるようでしたが、どんどん遠く、小さくなっていくようでした。ゆいちゃんは、ひまわりのオルゴールと離ればなれになってしまい、少しさびしく思いました。
離れていく棚を立ち止まって見送るゆいちゃんの耳の周りを、腐ったコウモリが飛んでいきました。あまりにうるさかったので、ゆいちゃんは耳をふさぎました。目もぎゅっと閉じました。くるり、と体が回りました。ごぼごぼ、と深い水の中のような音が耳の奥で聞こえます。それに、がしゃん、がしゃん、という音。何か重いものを動かす音のようです。ついでに、低くて太い男の人の声も聞こえます。
「おい、こっちのマネキンはどっちだ」
「そっちのマネキンはこっちだ」
「じゃあこっちのマネキンはどっちだ」
「そっちのマネキンはあっちだ」
ゆいちゃんは目を閉じ続けていました。体はくるくる回り続けています。がしゃん、がしゃん、という音が、だんだん遠くなっていきます。それと共に、男の人たちの声も、だんだん消えていきました。

片目を開くと、そこにはもうキラキラ光る天井はありませんでした。
けれど、白い部屋でもありませんでした。

鉄で出来た洞窟がありました。びかびか、光っています。
「こちら、こちら」
と、やかましいです。

ゆいちゃんは考えました。

洞窟は二つに分かれています。片方は、入口からゆいちゃんの足元まで、びっしりコケが生えています。ざわざわ、ざわざわ、と揺れています。コケは時々風に乗って揺らめき、エメラルドの破片のように光ります。よく見ると、コケの1本1本を作っているのは、テカテカの緑色に塗られたマネキンの指のようでした。
もう片方の洞窟は、中から水が流れてきて、ゆいちゃんの足をトロトロ濡らしています。それは、冷たいような温かいような、生ぬるい温度でした。そっちの洞窟の方からは、ヒョォオオオ、と強い風の音が聞こえ、時々、はっくしゅん、とクシャミが聞こえました。そのクシャミがあまりに大きいので、それが聞こえるたび、ゆいちゃんの髪の毛がふわふわひらひら跳ね上がりました。

さて、どちらに行けばいいのでしょう。ゆいちゃんは悩みました。あちら、こちら、そちら、どちら…と、洞窟の入り口を交互に指差して考えます。その間に、はっくしゅん、が2度聞こえ、コケはより一層、海の中の海草のように踊りました。

ふと、立ち止まって迷っているゆいちゃんの耳に、何か声が聞こえました。雄叫びのようです。地面をぐらぐら揺さぶるような、強い雄叫び。それが、後ろから聞こえてきます。

ゆいちゃんは振り返りました。

後ろから、無数の兵士たちがゆいちゃんを追いかけてきています。テカテカした赤い軍服を着て、大きな爪楊枝をフリフリ、大声で怒鳴りながらこちらへ押し寄せているのです。どどどどっ、と走るたびに白い砂埃が舞い上がり、象の大群のようでした。

ゆいちゃんは急いで、コケの生えた穴へ逃げ込みました。マネキンの指の1本1本が指先を曲げ、ゆいちゃんを歓迎しました。洞窟の中は、一面の緑でした。それは確かにコケのはずなのですが、ゆいちゃんは小さい頃にお母さんやお父さんと一緒に出掛けた草原を思い出しました。遠い後ろの方から吹いた風が、お弁当箱の蓋をカタカタ揺らしながら、想像もつかないような遠い空、天空へ舞い上がっていく、あの草原です。お花も何もない、ただ草があるだけの場所です。

ゆいちゃんは走りました。壁に描かれた古代の遺跡の模様たちが、ゆいちゃんを見送りました。

やがて、まっすぐ先に白くて丸い光が見え始めました。出口です。コケ臭さが少しずつ薄くなっていきます。マネキンの指が、ぞろぞろと怯えはじめました。

ゆいちゃんは、はぁはぁ息を切らしながら走りました。
コケの通路が終わり、ゆいちゃんは白い光に包まれました。指の先が、じぃんと痺れました。

着いた先は銀行でした。白いタイルが、床、壁、天井までビシビシ並んでいます。かしゃん、かしゃん、と渇いた音が無限に続き、壁や天井に跳ね返って、いつまでもいつまでもその音を響かせ続けています。あらゆるところに看板がありましたが、書かれているのは全て数字のようでした。けれど、茶色いコートを着た背の高い大人たちは、その看板を読んではふんふんと頷いてどこかへ消えてしまいます。大人には、あれが読めるのでしょう。

右側にある白いカウンターでは、メガネをかけたネズミたちがお金を数えていました。
「1カブ、2カブ、3カブ…」
「や、や、4カブの間違い…」
「おお失敬…」
ネズミたちは、自分たちの手元を見ることに夢中なのでした。ゆいちゃんは、私がどこに行けばいいか分かる人はいませんか、と尋ねてみました。しかし、どのネズミも答えてくれません。
「赤いカブ、青いカブ、黄色いカブ…」
ゆいちゃんは、ふと恐ろしい考えを思いついてしまいました。ゆいちゃんが行くべき扉は、破れた天井のガラスの海に沈んでしまったのではないか、と。もしそうなら大変です。ゆいちゃんは、鼻がつぅんと痛くなるのを感じました。目の淵に涙がひたひた溜まります。

その時です。
後ろで、キィィィィッ、と大きな悲鳴があがりました。
ゆいちゃんは振り返りました。

ゆいちゃんのお祖母ちゃんが居ました。犬のような大きさのハサミを持って、ネズミの鼻を掴み、扇風機の羽のようにぶんぶん振り回しています。
「よこしな、よこしな、よこしな」
お祖母ちゃんは何かを叫んでいます。ゆいちゃんは怖くて震えあがりました。その内、お祖母ちゃんはネズミを壁に向かって放り投げました。ビターン、と大きな音を立てて、ネズミはぺしゃんこになりました。潰れたネズミの体の下から、コケと同じ緑色の液体が流れだし、床を汚しました。

お祖母ちゃんがハサミを持って、ゆいちゃんを怒鳴りつけました。
「よくもグシャグシャにしたね。よこしな、よこしな」
ゆいちゃんが、嫌、嫌、と首を振ると、お祖母ちゃんは近くにいたネズミのピンとした襟を掴み、その細い腕にハサミを当てました。
「カブ、カブ、カブ」
お祖母ちゃんが唱え始めました。哀れなネズミはガタガタ震えました。
ゆいちゃんは泣き出しました。
ネズミの悲鳴が甲高くこだまします。
ゆいちゃんはネズミの事を思ってまた泣きました。
頭を抱えて目を閉じていると、やがて、オルゴールの音色が聞こえてきました。
オルゴールの音がだんだん変わっていきます。綺麗な音色から、ぴぴ、ぴぴ、という音へ。
ゆいちゃんはこの音を知っていました。

ゆいちゃんは目を開けました。
ぴぴ、ぴぴ。
ゆいちゃんは目をこすりました。トロトロと溢れた涙が、布団を濡らしていました。
「ゆいちゃん、どうしたの」
お母さんの声が聞こえました。ゆいちゃんは首を振りました。
「カブがないの。私、オルゴールをもらえなかった。きっとネズミも沢山死んでしまった」
ふと、温かい手が、ゆいちゃんの頭を撫でてくれました。柔らかい石鹸の香りがします。
「ゆいちゃん、不思議な夢を見ていたのね」
ぴぴ、という音が止みました。お母さんが、かちりとスイッチを切ってくれたのでした。
ゆいちゃんはお母さんの温かい手を握りました。その瞬間、苦しんでいるネズミはいないし、そもそもネズミは銀行で計算をしないし、お祖母ちゃんはとても優しい人だし、足元も水浸しになっていないことを、やっと思い出しました。
お母さんは、ゆいちゃんを抱きしめて撫でながら、何度もこういいました。
「夢だったのよ」

「全部、夢だったのよ」

「だから、大丈夫なのよ」


ゆいちゃんはゆっくり目を閉じました。



2012年 6月12日 書き終り

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