トンネルの向こうへ


 いつも自転車で通る道の脇に、小さなトンネルがある。一車線しかない、古びたトンネル。今はもう使われていないその廃トンネルの前に、時々“彼女”が立っている。遠い海から来た風に白いワンピースの裾を遊ばせながら、彼女はただ立っている。立って、どこに繋がるとも分からないトンネルの奥を眺めている。ずっと彼女を見ていると、その横顔が、完成された絵画のようでどきりとする。
けれど、美術館の絵画に素手で触れてはいけないように、彼女に近づくこともよくない事のように思えて、いつも通り過ぎるだけ。彼女の姿が、視界の端に消えていくまで、意識しているだけ。それだけだった。

「今日は穏やかな日だねぇ」
マスターが、煙草の煙と一緒にそんな言葉を吐き出した。店の中に、人工的な甘い匂いが充満していく。どうも、この匂いは苦手で、僕は窓際に寄った。
「窓、開けますね」
「おぉ」
マスターが、やってくれ、と片手をあげる。鍵をあけ、からりと横に開く。
ふわり、と風が吹き込み、白いテーブルクロスを揺らした。
「今日は涼しいな」
「ほんとね」
誰かが言った。

 窓際に4人掛け3席、中央に6人掛け2席、カウンターに8席。小さな店の中に、今お客さんは2人。2,3か月前にこの街に引っ越してきた夫婦。奥さんのお腹の中には、1人目のお子さんが居るらしい。
「あたしもマスターの珈琲飲みたいなァ…」
なんて言いつつバニラアイスを突きながら、旦那さんが飲んでいる珈琲をいつも恨めしそうに見ている。旦那さんはいつも、奥さんの視線をかわす為に天井を見つめている。それでも、カフェオレや紅茶に乗り換える気は、ないらしい。

ふと、マスターが奥さんに尋ねた。
「名前、決めた?」
「うーん、おばあちゃんに決めてもらう予定なんだけど、今回は全然浮かばないんだって」
「へぇ…」
そりゃあ、難儀だ――とマスターが呟いた瞬間、店の扉が開いた。

振り返って、いらっしゃいませ、と言おうとした瞬間、言葉が喉の辺りでつっかえた。
黒くて長い髪、白くてふわりとしたワンピース。風で倒れてしまいそうな、柔らかな体の線。
「あ、いらっしゃいませ…」
トンネルの前で見かけるあの子だった。近くで見ると、目の形が少し特徴的だと分かる。
「やぁ」
マスターが声をかけた。女の子が訪ねた。
「窓際、いいですか」
「いいよ」
どうも、と礼を言うと、彼女はまっすぐ窓際へ行き、椅子を引いた。マスターが、水とおしぼりとを用意しながら僕に小声で言った。
「あの子の注文は決まってるから、いいよ」
「あ、はい」
僕は、何故かどきどきしていた。彼女自身の事を全く知らないのに、古い馴染みのような気がする。そんな錯覚が胸の中で膨らんでいる。自然と首筋に汗が浮いてくる。まるで、自転車をこいでいる時のように。
水とおしぼりを運ぶと、彼女ははにかむような笑顔を見せた。
「ありがとう」
僕の背後、カウンターの中からマスターが彼女に声をかける。
「ミートソースのパスタと、レモンティーだよね」
「ええ」
彼女は振り向いて頷いた。そして、ゆっくり付け足す。
「あの、食器は2人分…」
「ああ、分かってるよ」

妙な注文だ。僕は、無意識に首を傾げた。

 忙しくなりそうな気配もなかったので、僕はカウンターで食器を片づけているフリをしながら、彼女を観察した。
窓際の白い日差しの中で、彼女は溶けて消えてしまいそうだった。10歩近づけば彼女の傍に寄れるというのに、僕は未だに彼女の横顔を見る事で精一杯だ。まるで、トンネルの前に佇んでいる彼女を、遠くから見ている時と、同じような距離感。
そういえば、今あの窓際の席に座っている彼女の様子もトンネルの前に居る時のようだ。どこか遠くを見ている。顔の向きは店の入り口の方だけれど、その扉を開いたもっと遠い場所をじっと観察している。そんな様子だ。

僕は何か落ち着かなくて、整頓された食器を無駄に動かしたり、右にあるものを左にどけて、それを右に戻したり、ひたすら何かをしているフリをしていた。そうでないと、腹の底で彼女の事を気にしていることが、彼女に伝わりそうな予感がした。
彼女は、そういったことに気づきそうだ。
それはただの予感だったけれど、確信にも近いものだった。

やがて、パスタの茹で汁の香りが、厨房の方から漂ってきた。肉とトマトの香りも続く。ちゃき、と調理器具の音。
「あがったよー」
マスターの声。
「はぁい」
今行きます、と言って、僕は厨房に入った。むっとした湯気の暑さが僕の体を包んだ。

 「お待たせしました」
まず、彼女に注文の品を運んだ。
麦畑が描かれた白い皿に、とろりと載ったミートソース。ひき肉、玉ねぎ、トマト、乾燥バジルの香りが、くたりと折れたパスタの香りと絡まっている。
「それから…」
何も載っていない皿を、彼女の正面の席に置く。さらに、マスターに言われたとおり、無人の席にナプキンを広げ、フォークも置く。
2人分の用意が整うと、彼女は満足した表情で頷き、一瞬対面の席を見た。少しトイレに立った連れを待っている、そんな様子で。
「ありがとう、とても美味しそう…」
そう言って、水を一口飲みフォークを取った。
「紅茶はお食事後にお持ちします」
「ええ」

微笑んでいても、どこか根っこに悲しみを持っている。彼女と近づいて会話を交わして得たのは、そんな印象だった。
カウンターに引換し、僕は声を潜めてマスターに尋ねた。
「あの…なんで、2人分なんですか?」
マスターは、ぽっぽっと湯気を吹くヤカンを見つめながら答えた。
「それぞれ、事情があるってことだよ」
「…」
納得のいかない、いきようがない答えだった。

 先に居た夫婦が帰り、店には僕とマスターと彼女だけになり、空気がより静かになった。時折、皿にフォークが当たる音が断続的に聞こえる。白い窓枠の外に目をやると、穏やかな初夏の午後が見えた。時折、店の隣の灰色の道路の上を、古い車や談笑し合う老人たちが通り、やがて視界から消えていく。こちらから行く人、向こうから来る人。今しがた通った女性の買い物袋には、ネギと茄子が見えた。

 外の景色を見て心を落ち着かせようとしても、まだ体のどこかで、心拍数以上の何かがどきどきと跳ねていた。何かを目に浮かべるたび、灰色の石壁、古びた煉瓦、黒い穴、そして対照的に真っ白なワンピース、そこに佇む彼女の姿が重なって思い浮かぶ。
今、彼女はすぐそこに居る。あの窓際で、入口の方を見て、時々近くの窓辺に植えてある赤い花(小さな薔薇だ)に目をやりながら、食事をしている。右利きで、フォークの扱い方は上手い。時々手を休め、口を休め、ぼんやり考え事をしている。

かちゃ、という陶器の音で、僕は我に返った。

マスターが僕の前にレモンティーを置いていた。
「よろしく」
いつも通り簡素に言われ、はい、と答える。僕は何故か無意識のうちにエプロンの皺を伸ばしていた。きゅっと最後の一伸ばしをして、カウンターから出て白地に青の皿とカップを手に取り、彼女の元へ運ぶ。

「お皿、下げますね」
「ええ」
僕の言葉に頷いたものの、彼女の意識は此処ではない場所に居るようだった。どこにいるのだろう、と検討をつけるとすれば、それは――

ひゅお、と一際涼しくて大きな風が窓から吹き込んできた。カーテンが大きな山を作りながら天井へ向かい、やがて萎みながら元の平坦な布へ戻る。
「あ…失礼します」
一礼して、皿を乗せた盆を手に、カウンターへ戻った。奥では、旅行雑誌を片手に煙草を吸っているマスターがいて、
「冷房が要らない涼しさって、ありがたいね」
と、呟いた。

「それじゃ、マスター」
「ああ」
支払いを終えて、彼女が帰って行った。扉をがちゃりと開け、サンダルを履いた白いふくらはぎがその向こうへすっと消える。静寂が、波のように帰ってきた。
僕は無言でその姿を見送り、やがて、彼女が居た窓辺の席へ向かった。カップと皿を盆に載せ、彼女の対面の席に置かれていた未使用の皿も一緒に載せる。

「おじいちゃんなんだってさ」
僕が食器を乗せた盆をカウンターの上に置くのと同時に、マスターが言った。
「え?」
「だから、…さっきの彼女の連れさん」
食器を流しに置きながら、僕は入口の方を肩越しに振り返った。
「え、でも…」
「不思議な話だよねぇ」
マスターはそう言って、手元の煙草の先を灰皿に押し付けた。そして、当たり前のように僕にこう言った。
「小さい頃から、自分を見守っているお爺さんが居るらしいよ」
スポンジに洗剤を垂らしながら、僕はひくっと口の端を震わせた。
「それはいわゆる、僕たちには見えない系の何かですか」
「逆に聞くと、君は見えたのか」
「あ、いや、何も見えなかったです」
「そうだろう」
俺だって見えない。そう言って、マスターはうんうんと頷き、白い布巾を手に取った。カウンターから出てテーブルを拭きながら、マスターはこう話した。
「大体、半年だかそれぐらいに1回、此処にやってきては、お爺ちゃんと一緒に食事をして帰るんだよね」
その言葉があまりにもごく普通の言い方なので、僕の中の常識という感覚も、じわじわと薄まり機能しなくなった。
「あの、…そのお爺ちゃんっていうのは…彼女の祖父…?」
「いや、…血筋上のお爺ちゃんじゃなくてな。…あの子も最初、あのお爺ちゃんが誰だか分かんなかったそうだ。血縁の爺ちゃんは生きてたし、曾爺ちゃんとはちょっと顔や特徴が違ったらしくってな」
僕は眉を寄せた。
「じゃあ、知らないお爺ちゃんが見守ってくれてたんですか?」
「そうでもないんだな」
マスターは、悪戯を仕掛ける子供のように、にやりと笑って僕を見た。
「彼女の言う、そのお爺ちゃんの特徴を、当時まだ生きてた曾お祖母ちゃんに聞かせたら、…それは、戦争で死に別れた、彼女の曾お祖母ちゃんの婚約者にそっくりだったんだってさ。…泣ける話だろ?」
「…なんか、すごいですね」
「ああ。…そのお爺ちゃんが、あの子をあの子として見ているのか、それとも曾お祖母ちゃんと勘違いしてるのかはさっぱりだけど、…とにかくあの子が小さい頃から、どこかで見守ってくれていて、彼女もそれを薄々感じてたんだってさ」
「それはいわゆる、霊感とかそういうものなんでしょうか」
僕からの問いに、マスターはテーブルを拭く手を止め、うーん…と深く唸った。
「そんな風俗じみたもんじゃないと思うけどねぇ。…ほら、今日はラッキーだとか、ツイてるとか思う日、あるじゃん。…ああいうもんの延長線上だと思うけどなぁ。…とにかく、なんていうんだろう、…んー…」
マスターはふと顔をあげ、窓の外を見た。いそいそと通り過ぎる風と共に、何かの木の葉っぱが右から左へ飛んでいる。
「ゲン担ぎと言えばいいのか、…守護神とでもいえばいいのか。そんな言い方大げさか。…彼女にとって、そういう風に見守っていてくれる存在が居る、って、そういう安心感を持っているんじゃないのかな。…まぁ、心情とか精神論って、人によって違うよね。…俺は、朝の血液型占いで一日の気分全部変わるけど…」
「…それは俗っぽい…」
きゅっと蛇口を閉めた。僕は、自分の指先から降りた水滴が手の甲の辺りで留まり、シンクの流しに落ちていくのを見つめた。落ちた水滴は排水溝へ。かぱりと口を開ける、黒い穴へ…。
「ねぇマスター」
「ん?」
マスターはこちらに背を向けたまま、緩い声を返した。
「僕の家からこのお店に来る途中に、…トンネルがあるんですけど…。…あの、普通のトンネルじゃなくって、もう閉鎖されてる、使われていない…」
「ああ、相神(さがみ)隧道ね」
「ご存じなんですか?」
「郷土博物館とか行ってみろよ、結構資料あるぞ。…俺も昔、社会の授業かなんかで研究して発表させられたなぁ…」
「あのトンネルって、何か…その…」
脳裏に、彼女の姿が過る。それに、彼女の“お爺さん”の話が合わさって、奇妙な効果を生む。黒と白の強い陰影が、記憶の中で交差した。
「心霊スポット探しか?」
マスターが振り向いて言った。
「違いますよ。…その、…あの、さっきの女の人が…」
「あの子が?」
「…たまに、そのトンネルの前で見かけるんで…」
僕の言葉を聞いたマスターは、分厚い瞼を伏せ、何かを考えているようだった。その指が、ひくひくと動く。多分、カウンターの上に置いた煙草を無意識に探しているのだろう。
「…そうかー…」
深い溜息を押し出すような口調で、マスターは言った。やがて、その口がぽつりぽつりと言葉を並べた。
「あのトンネルは、昔…隣町の港に、商売の荷物を運ぶために作られた、鉄道用のトンネルだったんだ」
「はい」
僕は頷いた。
「でも、運んだのはそれだけじゃなくてな。…軍事用の物資とか、それに、出兵する軍人サンなんかも、その列車に乗せて一緒に運んで、…港から送り出したんだ」
僕は、マスターの考えていることが、なんとなく分かるような気がして、深く頷いた。
「…はい」
「今はもうでっかい道が出来ちまって、そのトンネルも使われなくなったけれど…。…そうか、あの子がトンネルの前でね…」
マスターは、無意識の動きで布巾を4つ折りにした。その布巾を野球ボールのように片手で投げて弄びながら、
「…彼女の“お爺さん”がこの辺りの人だとしたら、…昔、その列車に乗って――」
僕は何度か瞬きをした。視界が暗転するたびに、1人の青年が列車に乗り込み、その列車が例のトンネルを潜っていく様子が、映画のフィルムの1枚1枚をバラしたように、細切れに動いて見えるようだった。

ふわり、とカーテンが盛り上がる。マスターが窓辺に近づき、両腕で布を抱きしめるようにカーテンを捕まえて紐で固定し、窓を少し閉めた。
「…深いじゃねぇか」
「…その言い方だと、浅い気がします」
だらりとした午後が、温い空気の中で再開した。

 「それじゃあ、お疲れ様でした」
「ああ、また」
マスターに会釈し、僕は日暮れに染まった道を自転車に乗って走り出した。後ろから風を感じる。Tシャツの裾に風が入り込んで、ふっくらと膨らんだ。
緩いカーブをいくつか曲がり、時々背後から轟音をあげて走ってくる大型トラックに緊張しながら、いつもの道を行く。
そう、海沿いのいつもの道を――

「あの角を曲がったら――」
僕の中の何かが、一つの予感を示していた。胸の中に起こった何かが、音を立てて内臓を揺さぶる。頭の中では、巨大な黒い穴がぽっかりと開き、僕を待ち受けていた。
スーパーの袋か何かが、茶色い残像を残しながら僕の目の前を横切った。日暮れ色の海がざざんと音を立てる。カーブが終わる。道が開ける。

白色が閃いた。

僕はスピードを落とし、トンネルから100メートルほど離れたところの車道脇で自転車を傾け、地面に片足をつけた。
「…」
海沿いの大きな道路から離れ、山の中を行く、木々に守られているような脇道。その奥に今もどっしりと構える、廃隧道。半分が石造りで、上部が煉瓦造り。煉瓦の1つ1つが日暮れの色を映し、鈍く光っている。
真っ黒な入口の前には、赤いコーンが連続して横に並んでいた。コーンとコーンの間のロープに、「立ち入り禁止」と書かれた紙がぶら下がって、風に揺れている。
そして、その風景に溶け込むように、彼女が居る。こちらに背を向けた姿。丸い肩、なびく髪、突っ張った肘、柔らかそうな布で出来たワンピース、張り詰めたふくらはぎ、素足に履いたサンダル。

彼女は、今何を考えているだろう。

時間の流れが留まり、水槽の中のようにぐるぐると淀んだ空間だった。車の音はどこか遠くに消え、耳にはぴぃんと張り詰めた空気の音が突き刺さる。
彼女は今何を見ているのだろう。
僕の喉は渇いて、口の奥で張り付いていた。自分の呼吸音だけがやたら大きく、耳の血管はドクドクと大きな音を立てていた。
いつもこの場所を通り過ぎる時と同じ光景なのに、何か違うと、僕の本能のようなものが告げていた。
何か、違う――

ふと、沈黙と静寂を破って、彼女が動いた。音も無く、入口に近づく。一歩一歩歩くたび、白い指先が振り子のように揺れる。あらかじめそう動くことを決められた、人形のような動き。
彼女の脚は、まるでロープなど無いかのように軽々と境を越えた。髪が揺れ、暗い影が彼女の肩に落ちる。まるで彼女を飲み込むように、黒色が覆っていく。
「あ…」
気づくと、彼女の姿はトンネルの暗闇の中に消えてしまった。世界は、まるでそれをあるべき事のように受け入れてしまっていた。僕も、それを認知するまで自分の体が自分のものでないような感覚だった。彼女は、行ってしまった。

僕は汗ばんだ手で、自転車のハンドルを握りなおした。

赤い夕陽が沈んで夜を連れてくるまで、僕はその巨大な穴を見つめ続けた。

彼女は、行ってしまった。



2012年 6月11日 書き終り

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