廻る蝉 そして金魚鉢



一. 葉書を読む男

 夕暮れ時だった。辺りはセミの声は途切れる事なく続き、打ち水で濡れた土の湿気の匂い、或は生命力を広げる木々の葉の匂い、そして厨房から漂ってくる、からんころんという氷の音と、そうめんの茹で汁などの、夏の匂いで満ちている。
 1人の男が、そんな匂い漂う庭先に居た。先ほどからずっと、縁側に腰掛け、葉書を読んでいる。若干、猫背気味である。
この葉書は、この時より3日前に来たものである。
今も男は、繰り返し暗記するほど覚えたその文章をまた最初から読み直し、眉間に深い皺を寄せている。

厨房から、とんとんとんとん、と野菜を刻む音が聞こえる。

男が、ふと葉書から目線を離した。そして、足元の一箇所を見て、少し驚いたように目を開き、感慨深げな表情をした。
彼は、再び葉書に目を落とした。今度は読むためではない。その葉書に、名残を惜しむためだった。

男は立ち上がり、履物を脱いで自分の部屋へと入った。葉書を書き物机に無造作に置き、少し躊躇い、押入れを開けた。

そして男は、旅支度を始めた。


二. 死ぬ男、生きる男

 昼を少し過ぎた頃だった。蝉の声に混じって、子供達のはしゃぐ声がどこか遠くで聞こえる。空は雲の欠片もなくただ青く、直接突き刺すような日差しは、日なたにあるもの全てを焦がそうとしているようだった。
そんな夏のひと時の庭の端、縁側に2人の男が居る。
1人は、6色もの色を使った派手な服を着た男。体格がよく、目が自信に溢れていて、縁側にどっかりと腰掛けたその姿には、どこか粋な風情も感じられる。
もう1人は、限りなく黒に近い色の服の男。限界まで痩せた色白の体は、ただでさえ見ていて痛々しいほどであるというのに、隣に居る男が比較対象であるとさらに痛々しい。目には覇気がなく、風に飛ばされて今にも粉々に砕け散りそうな弱々しさがあった。
しかし、存外こんな対照的な2人が、もう7年の付き合いになる友人同士なのであるから、世の中とは奇妙な道理の上に成り立っているものと言える。

今日もこの派手な方の男――高山は、忙しい時間に都合をつけ、痩せている黒い方の男、雨之宮の実家へわざわざ来ているのだ。
というのも、この雨之宮という男は、心身両方のやんごとなき病気から、約1年の入院を終えて、先日やっと退院してきたところなのだ。
「いや、わざわざ来てくれて本当に感謝している」
雨之宮は、掠れたか細い声でそう言った。元々こんな声ではなかったはずなのだが、入院生活の間で起こった様々な変化の一種なのだろう。
高山は言った。
「感謝されるほどのことでもない、むしろ退院直後に来られなくて申し訳なかったと思っているんだ」
雨之宮とは対照的に、野太く、力強い声だった。
「そうか、いや、直後なんてまだフラフラしていて、みっともなくて…例え君が来てくれたとしても、拒んでいたかもしれないな」
雨之宮は弱々しく微笑んだ。
「そうかそうか、それじゃ絶好のタイミングというわけだな」
そう言いながら、高山は豪快に笑った。

 高山は、からんと氷の音を立てながら麦茶を飲み、一息ついて言った。
「いや、しかし君の居ない間は問答の相手が居なくて暇だったさ」
「君は、僕より友達が多いだろう」
「友というのは、そりゃ多い方が少ないよりいいが、本質的には量より質だ」
高山はあっさりと切り捨てた。
雨之宮は苦笑する。
「それは、量側だと判断された友人も気の毒に」
「相手にとっても俺は量なんだろう、そういうものだ」
「いわゆる、即席麺のような存在だね。腹さえ満ちれば、味はそんなに気にならない、という…」
「しかしまぁ、欲しいときに欲しいだけ必要、というものもある」
「それは君…」雨之宮は何かを言いかけ、少し咳払いをした。「友達、というよりはただの人材だろう」
「まぁそういうことなのだろうな。しかしその境界線なんて、あやふやなものだ。ずっと量目的で、相手の事を何も慮らなかったというのに、ある日突然情が湧く。そんな事も、ごくたまにあったりする」
「なるほど」
高山が黙り、雨之宮も黙った。
この2人の会話の内容は、実に抽象的かつ哲学的要素を持った少々奇妙なものではあるが、彼らの間では、どうということはない日常的な挨拶なのである。
高山は、その豪快で細かい事を気にすることなどなさそうな外見とは逆に、常にあらゆる思考を巡らし、論理を遊戯として扱う事を好む性質だ。
雨之宮もそれは同じで、高山曰く、唯一彼と対等な知識量で会話のできる人間なのだと、認められている存在だった。

ほんの10秒程度、静かな時間が流れた。虫が、ぶぅんと音を立てて庭の木々の間を行ったりきたりしている。
「質とはその人間の価値だ」
高山が唐突に言った。
「君の質は、本当に高いものだと俺は思う。…アマ、君はあっちに居る間、何を考えて過ごしていた」
雨之宮は、視線を右隣に向けた。高山も、左隣の彼の目を真っ直ぐ見つめた。
「僕の思想に、価値なんてないと思うよ、戯言だ」
「そうは思わない。本に書いて全国民に教授したいほど、君は面白い。君と俺との会話は、非情に有意義だと思う」
「会話が有意義かそうでないか、その判断なんて誰が決めて、そしてそれで誰が得をするのやら」
雨之宮は投げやりな様子でそう言い、しかし隣の高山の表情を見て、発言を改めた。
「いや、君の言いたい事は分かる。ただ、ほら、退院後で無気力なんだ。褒められても素直に受け取れない節もある。…だが、そうだな、何を考えていたか。…何を考えていただろう」
高山の視線を受けながら、雨之宮は暫く記憶をたぐり、そして1つの事を思いだした。
「そうだな、特にたいした事ではないが、飼い慣らされた金魚に目玉は必要か、などと考えていたな、一週間ほど」
高山の表情に変化があった。
「それは、目玉を潰すということか」
「そんな事はしないさ」雨之宮は、片手の指をくるりくるりと回した。「生物は、いらない部位を切り捨て、次へと進化すると聞いた。もし、ひたすら金魚を飼い慣らすことがあれば、彼らには野生の時とは違う、いらない部位が見つかるかもしれない。僕は、それを目だと思ったんだ」
「目、か…」高山は自分の頬に手をあてた。そして、長い指先で自分の目蓋に触れつつ言った。
「鉢の中でのみ生きる飼い慣らされた金魚であれば、目よりも、ヒレがいらなくなるのではないかい」
「残念ながら、人間はそのヒレの美しさを愛でる」雨之宮が言った。「それをなくしては、もう飼ってもらえない。死活問題となるんだ」
「そうか、なるほど…。…飼い慣らされた金魚の目、か…」
「そう、そしてそれを考えていたのは、もちろん入院中だったんだが…。…退院したら、なんと僕の部屋に金魚鉢が置いてあってね」
「なんだと」
「僕の甥がね、まだちっちゃい子なんだが、近所で開かれた縁日でとってきたものらしい。世話の手間が少ないから、僕でも管理できる、と、気休めになるから、と言われた。まぁ、中々可愛らしいよ」
高山は、背後の部屋をちらりと見た。薄暗い部屋の一角には、確かに丸い金魚蜂が置いてある。その中で、ひらりと赤いものが舞っているのも見えた。
「いい趣味じゃないか」
「どうだろうね、実際」

高山は雨之宮の部屋から視線を戻し、腕を組もうとして、ふと地面に目をやり、「お」と声をあげた。
驚きの声、というのは高山には珍しく、つられて雨之宮も彼と同じ場所を見た。

うぞうぞ、と動く黒い物体があった。

「蝉か」
「ああ、もう死ぬな」
どちらからともなく言った。

仰向けになった蝉が、必死で6本の曲がった手足を動かし、体をくねらせていた。その動きを見るだけで、この蝉が再起不能であることは間違いなく分かる。羽と身体は埃と土に汚れ、それでも足を蠢かせている、小さな死に掛けの命。哀れの一言だった。
「一週間の命か」
雨之宮が呟いた。
高山も言った。
「短いとは思うが、こいつらにとってはそれが一生なんだ」
雨之宮は顔を上げ、高山を見た。
「なぁ、もしとんでもなく長寿かつ巨大な生き物が居たとして、その巨人は、たかだか数十年の命でしかない俺達を、嘲笑うんだろうか。今の俺やお前のように、あんなに短い命でも彼らにとっては精一杯の一生なんだ、と俺達の死体を見て思うのだろうか」
高山は、腕を組んだまま、至極真面目な顔をしていた。
「俺も、同じ事を考えた。空しいことだが、実際そうなのだろうな。…巨人と言わず、天と地は、俺達よりずっと長生きだ。自分達が用意した環境の中で、人間という生き物が営んでは死に、営んではまた死んで生まれる様子を、俺達が虫を見る気分で眺めているのだろう」
「本当に空しいことだな」
「ああ」

そう言っているうちに、2人の足元の蝉は動かなくなっていた。時々思い出したように、足のうちの1本がぴくりと揺れるが、もはや生きている様子は感じられない。
1つの命を看取るような妙な気分を共有した2人は、少しの間会話を行わず、黙っていた。
すると耳につくのは、喋っている間そんなにも気にもとめなかった、辺りの蝉の声である。まるで合唱のように、あらゆる種類の蝉の声が混じり、大空に向かって歌い上げている。
「蝉が、鳴いているな。…こいつの死体を前にしても、特に気にせず鳴くものだな」
高山が、少し茶化すように言った。
雨之宮は目を閉じた。別の事を考えていた。
「…あの蝉たちは、この蝉を弔っているのか、それとも嘲笑っているのか」
「俺達にはわからないだろう」
「ああ、そうだな。…だが、…蝉だけではない、蝉に限っただけのことではない、と俺は思うんだ」
「…まあ、弔いにしろ、嘲りにしろ、この蝉が――」高山は地面を指した。「弔いを望んでいないとすれば、例え弔いでも意味を成さない、邪魔なものとなるだろう」
雨之宮は、蝉を見て、そしてそれを見ている高山を見た。高山もすぐに彼の視線に気づき、雨之宮を見返す。互いに腹の中を探り合うような数秒が流れた。
雨之宮が言った。
「少し、考え方が前より変わったか」
「色々あってな。…色んな考えを取り入れ、決意もしたし、今まで大事だと思って居た事を、捨てようとも思うようになった。…なぁ、ところで君も、少し悲観的になったな」
「一年は、長いからな」
そういって雨之宮は、高山からの目線をそらした。
「そうだな、…そうなんだろうな」
高山もまた雨之宮の横顔から目を離し、遠い青空を眺めた。

気温は、まだまだ上がり続けるようだった。日陰にいるとはいえ、肌にはじわじわと汗が滲む。
ふと、雨之宮が言った。
「入院中、じっとしていると常に考えてしまう事があった」
「なんだい」
「生きている意味だ」
「…ほぉ」
「幼い頃からずっと病弱で、家族は優しくはしてくれるが、僕を外に出す気は毛頭ない。僕だってもちろん、積極的に外に出る事は怖いし慣れないけれど、ずっと寿命に怯えながら養われるだけの人生のどこに、それこそ有意義さがあるのだろう、と、それを見出すことができないんだ」
「…」高山は黙って、頬にあてていた手を膝の上に乗せた。
「何の為に生きているのか、何をするために生きているのか、答えのでないことさ。人の言う、家族が僕に言い聞かせる、生きているだけで素晴らしい、なんて、そんな事思えそうもないんだ」

暫く、場が沈黙した。

やがて、高山が先に口を開いた。
「アマ、君は間違っている」
「どういうことだい」雨之宮が応じた。
「つまりだ。人間がどう生きるか、そんな事なんてな、考えるだけ無駄ということだ」
高山は続けた。
「人間はな、どう生きるかじゃない。どう死ぬかなんだ」
「へぇ」
聞こうじゃないか、という態度で、雨之宮は高山を見た。高山も、その視線に応えた。
「半年ほど前に、仕事の最中にふと悟ったんだ。人間は生まれた時から、死ぬために生きている。死があっての生だ。その区切りがなければ、人は努力などしないだろう。…しかし、その努力というのも、一生懸命生きるためのものではない。…一生懸命、死ぬための努力なんだ」
そんな内容の事を話しつつも、高山の口調は、どこまでも豪快なものだった。
「一生懸命生きて、その死を綺麗に飾るため、人は生きているのだと俺は悟った。…だから、俺は自分の稼ぎの殆ど全てを、貯蓄に回している」
雨之宮はそれを聞いて、軽く皮肉った。
「あの世に金は持っていけない、と聞くよ」
そんな雨之宮に、高山はむっとした表情を見せた。
「あの世に持って行く金じゃない。…旅行の為の金だ」
「旅行?」
困惑する雨之宮に、高山はさらに豪快に言う。
「そうだ。…俺はな、今のうちに稼ぎに稼いで貯蓄して、そして、いよいよ死ぬか、という頃合になったら、旅行に出るんだ。一年間、毎日面白おかしく、遊んで暮らす。…あらゆる場所の、あらゆる四季を見るんだ。…詩を書くのもいいかもしれない。とにかく、旅行だ。死ぬ直前の目玉に、焼き付けるのさ」
「ほぉ…それが、君の言う…努力した死に方か」
雨之宮の呟きに、高山は自信を持って頷いた。
「そうだ。…そして、旅行の最後の地点は、自分で決めた死に場所にする。…そして、旅の思い出にふけりながら、自分の望む瞬間に死ぬんだ」
高山は、胸を張った。
「俺はその死の一瞬の為に、これからの人生を生きる。生きる意味なんてない。死ぬ為に生きるんだ」
雨之宮は一瞬、つまりそれは「死ぬ為に生きる」、という生きるための意味を確立させているのではないか、と思ったが、この自信満々状態に入った高山にその指摘はうるさそうだと思い、考えを改めた。
「どうだ、雨之宮」
「…そうだね」
しかし雨之宮の中で、高山のその理屈があってもよいことなのかもしれない、という考えは、確かに起こり始めていた。
「死ぬための努力か」雨之宮は呟いた。「僕に、何が出来るだろう」
「考えるとしたらそこだ、アマ。…生きる意味より、死の形だ。…花火の美しさはどこにある? …それは、大きく咲いて死ぬ一瞬だ。その一瞬の表現の為、生きるんだ。…懸命だろう」
「…そうなのだろうか」
「そういうことだ」
高山は、うんと頷いた。

「何をしてでも、俺は死ぬ為に努力する。毎日、毎日、その為に稼ぐんだ」
「ああ、…そういうのも、良いかもしれないね」
雨之宮は言った。
「体が万全になったら、その時は死ぬための貯蓄を考えても、いいかもしれないね」
「そうだ、推奨するぞ、アマ。…有意義な死を、だ」
「…ああ」
2人は乾杯をするように、互いに麦茶の入った器を掲げた。
氷が、からんと涼しげな音を立てる。

「それはそうと、栗山の噂を聞いたか」
「え、なんだい」
「いや、君が入院中にな――」

蝉の声が、2人の会話を邪魔するかのように、わんわんと響いていた。
1週間しか生きられないその蝉の声が、雨之宮の頭の中で、先に耳から入ってきた高山の理論を飽和させていくかのようだった。
なるほど、言われれば確かに、そうなのかもしれなかった。蝉も今、死ぬために生きているのかもしれないなぁ。
雨之宮はそんな事を考えながら、自信に溢れる笑顔を見せ付ける高山をぼんやりと見ていた。


三、偽った男、恥じる女、偽る男

 それからほんの2週間後の事だった。

その家の静けさは、まるで葬式の会場のようだった。或は、墓場にも似ているかもしれない。
恐らく、この家に溢れていた覇気の持ち主が、今は静かだからだろう。まるで、明かりを消した後の闇のように、そこには何の光も無い。
 雨之宮は、ひたひたと廊下を歩いていた。前を歩く華奢な少女の背中を見つめながら、毎度つくづく思うけれど、本当に似てない兄妹だな、などとそんな場違いな事を考える。

 寝室に通された。
部屋の中は、整っていた。がっしりした机、木製の本棚、いくつかの置物、薄い色使いの風景画、時計。それぞれがそれぞれの場所に置かれている。
これは彼が元々綺麗好きだったのだろうか、それとも今の状態になってから、家の者が片付けたのだろうか。
雨之宮は先に入った妹に続くことなく、出入り口に佇んだまま、部屋の中央の白い布団の上に横たわる高山の姿を見た。
彼の体は、まるでしぼんだ風船のようだった。体格は一回りか二回りほど小さくなり、気力に溢れていた目は閉じられ、時々目蓋がうっかりと開いては、空ろな眼球をこちらに見せている。

急な病気にかかった。
2週間もたないかもしれない。
治る見込みはないため、病院ではなく家で、家族が交代で世話をしている。
彼の友人の中で、貴方だけがきっとお見舞いに来てくれるだろう。
だから、来て欲しい。
最期に、会って欲しい。

ある日、そんな電話が雨之宮の元にかかってきた。電話の向こうの声は震えていて、悲しみに満ちてはいたものの、どこか冷静な面も伺えた。

雨之宮はすぐに身支度を整え、久々の外出をした。
とはいえ、あまりにも急な事であったため、高山に何を言えばいいのか分からない。
彼に持つべき感情は、同情か、哀れみか、それともいつもと変わりない笑顔を見せればいいのか、まったく検討がつかず、彼の顔を実際に見れば何か言葉も湧いてくるだろうと考えて来てみたものの、いざ彼を目前にして何か浮かんでくるものなどなかった。
ただひたすら、信じられない、という気持ちだけが先行し、他の全ての感情の居場所を奪っているのだった。

とりあえずは見舞いに来た人間として――或は、見舞いよりは看取りかもしれないが――、雨之宮は気力を奮い、寝室へと入った。
布団の傍に跪き、目を閉じたままの高山に声をかける。
「高山、…高山、僕だよ」
「…」
無駄だとは分かっていても、一種のパフォーマンスをしなければならない場面であった。
無論悲しくないわけではない。だが、やはり驚きが先に来て、うまく他の感情を練りだせないのだ。かといって、平常心すぎれば心が鬼であると疑われるだろう。
雨之宮は、その後5分ほどに渡って、友を労わる者として及第点と言える嘆きを見せ、ようやく妹と向き合った。
「いつ、どうしてですか」
最も聞きたいことであった。
妹は、彼女もまた兄の傍らに正座したまま、口元に手を当てる。
「…分かりません。ある時ふと、体調の不良を訴えました。兄はそういったことはやせ我慢する気質の方でしたから、とても珍しく…そのうち、咳き込むようになり、熱が…ひかなくなり…。…もう、殆ど何も食べなくなってから、5日になります」
すん、と妹は鼻をすすった。
まるでもう彼が死んだような言い方になったな、と雨之宮は思った。
しかし、実際高山の状態はもう、いつあちらとこちらの境界線を越えるか、残りの一歩を躊躇っているような具合なのだろう。
雨之宮は、朝顔が描かれた掛け布団越しに、高山の身体を撫でた。丁寧に、丁寧に、労わった。

ふと、高山が呻いた。
それを見た雨之宮は、一瞬驚いて声をあげたが、妹の顔を見るとすぐに、これは別に再起の可能性ではなく、病床に倒れた彼にとってよくある事なのだ、と気づいた。
「よく、呻くのです」
妹が静かに言った。
「そして、何かを夢うつつの中で読み上げます。毎回毎回、きっちりと間違いなく。頭に何度も焼き付けたことなのでしょう、人の名前を、何十人も、何十人も、羅列するのです。呻きながら、ずっと」
雨之宮は眉をひそめた。妹は、高山の額に浮いた汗をハンカチでふき取り、またもとの位置に戻って正座し、雨之宮を見上げた。
「最初は家族の誰も、兄が呻きながら羅列する名前が誰か分かりませんでした。…けれど、私、…兄の書類を片付けているとき、…見てしまって、分かりました」
その一瞬、確かに妹は兄を睨みつけた。下衆な虫けらを見る目で、兄を見た。そこには、怒り、憤り、そして一種の哀れみがこめられていた。雨之宮は、思わず自分の服の袖口をぐっと握り締め、次の言葉を待った。
「…兄がお金を儲ける為に、騙して裏切り、ひどい侮辱をした人たちの名前でした。私も家族も、兄がどんな事をしてあんな大きなお金を得ていたか知らなかった、けれど、それが分かって、…こんな時に分かって…。…それがもう、ただ、ただ…」
妹はその顔を、白い両手で覆った。
「ただ、恥なのです…。…兄は、恥なのです…」

すん、すん、と嘆く声が、部屋を満たした。
可憐な妹の泣いている様が、しかしその兄の死を嘆く、という動機からではないことを、その違和感を、奇妙さを、雨之宮は痛く感じていた。

「ねぇ、雨之宮さん」
粗方泣き上げた妹が、絞るような声で言った。
「兄は、どこへいくのでしょうか」
そしてまた、すん、と鼻をすする。高山の妹は続けた。
「私、人って死んだら死んだだけ、とは思えないのです。…死んだ後も、その後の暮らしがあると思う。でも、罪人が死後ものうのうと幸せな生活を送るなんて道理、きっと適わない。…兄は、…兄は…」
縋るような彼女の眼を、雨之宮は受け流した。震えながら限られた呼吸を続ける高山に目をやり、そしてまた、泣き腫らした少女の目を見る。
障子の影が、くっきりとした形を見せていた。外では、ヒグラシが鳴いている。

雨之宮は言った。
「…いくべき所に」

すん、と鼻をすする音が響いた。


四、葉書を読む男

 夕暮れ時だった。辺りはセミの声は途切れる事なく続き、打ち水で濡れた土の湿気の匂い、或は生命力を広げる木々の葉の匂い、そして厨房から漂ってくる、からんころんという氷の音と、そうめんの茹で汁などの、夏の匂いで満ちている。
 雨之宮は、そんな匂い漂う庭先に居た。先ほどからずっと、縁側に腰掛け、葉書を読んでいる。若干、猫背気味である。
この葉書は、この時より3日前に来たものである。

内容は、高山の死亡の報告だった。いつ、これこれな病気で、安らかに死にました、との事。

葬儀は、事情あっての密葬とのことだった。
雨之宮は、ふと右隣に視線をやった。
数週間前、高山は自分の死の瞬間についての夢を、とうとうと語っていた。
それが今は虚無である。夢は消え、残ったのは現実のみである。適うべくもない事ではなかった。夢半ば、無残な事だ。

雨之宮は、今再び、「何をもって生きるのか」という課題の答えを失った。
一時は、高山曰くの「死の為に生きる」という考え方の採用も考えていたのだが。
今はそれも、信憑性の薄い事柄となってしまった。引き剥いてみれば、実はなくただの抜け殻。それが真理ではなかったのだ。

そんな思想にふけっている雨之宮の足元で、じじ、と奇妙な音がした。
いや、音ではなくそれは声だった。

雨之宮は地面を見下ろし、驚いた。
蝉だった。
もがいている。足をもぞもぞと動かし、仰向けになって、最期の瞬間をあがいている。

「再びか」
雨之宮はぼうっとした声で言った。
「お前達は、何度も何度も、それを繰り返すのか」

雨之宮は、視線を死にかけの蝉から外し、庭全体を見渡した。
目の前には、ざわざわと揺れる緑の木々。
目を閉じれば、高山の顔が浮かぶ。それは目蓋の裏の世界の中で、水に溶けるようにぼやけ、死に掛けの蝉の死骸の姿と混じり、沈んでは浮かび、朦朧とした映像となって薄まって消えた。消えてはまた、白い掛け布団だけが暗い空間に現れ、もがき苦しむ一匹の蝉と1人の人間の姿となって混じって溶ける。時には朝顔が色を変えて赤い金魚となり、金魚はその場でくるくると回転し、派手な太陽の光となって地面を焦がした。

再び目を開ければ、木々と死に掛けの蝉と、高山の居ない右隣が存在する。

蝉は相変わらずもがいていた。雨之宮は思った。蝉は今、何を考えているだろう。この世の最期だと、分かっているのだろうか。

高山も、分かっていただろうか。
死ぬ意味、生きる意味、それを考えることの空しさ。存外の、あっけなさ。
それを、分かっただろうか。

「僕は、分かったけれど」
雨之宮の声に呼応するように、蝉が、じじ、じじ、と鳴いた。
「お前達は何度だって、懲りずに生きて、次を生んで、そして死んで、次もまた生きて死ぬ。何度だって、そうなんだ。…そこに、意味も必然もない」

この意見に、高山はどう反応しただろう。なんと反論するだろうか、それとも賛成して、自分を褒めてくれるだろうか。

さすがだアマ、お前はいつも素晴らしい。

とでも、言って。

雨之宮は、葉書をひらひらと揺らしながら、ため息を吐いた。
目下の課題は、「何をするか」である。

生きることに意味づけをしている暇は、そんなにないのかもしれない。
問題は、どう有意義に過ごすかだろう。

残りの人生を、限られ許された時間を、死ぬまでの一時を、如何にして。

雨之宮は、再び蝉を見下ろした。
「お前が今やらなければならないことは、そこでもがくことだろうな」
そして今度は、葉書に目を落とした。
読むためではない。その葉書に、名残を惜しむためだった。
高山がやらなければならなかったこと、そして彼がやりたかったこと、それらを思い浮かべた。

雨之宮の中で、着々と像が構築されつつあった。未来像、自分が何をしたいか、どうするか。
それを考える片手間で、雨之宮はふと思った。そして微笑んだ。

自分は何のために生きるかなどと難しい事を考えているつもりで、実は何をしたいか分からないという焦りに押されていたのではないか、と。

「…ということで、決めたんだ」
雨之宮は、誰ともなく話しかけた。
「僕は旅行に出かけようと思う。…寿命の長い者から見れば、僕の一生なんて一瞬で消し飛ぶ炎ぐらいのものだろうけれど、僕にとっても、あと蝉にとっても、先が想像できないほど長いからね。…せっかくだから、遠くへ行こう。高山が見られなかった分を、僕が見なければならない。そう思うんだ」

雨之宮は立ち上がり、履物を脱いで自分の部屋へと入った。
葉書を書き物机に無造作に置き、少し躊躇い、押入れを開ける。



そして雨之宮は、旅支度を始めた。


五、男、そして金魚鉢

 小1時間程度で、旅行の準備は整った。
雨之宮はぶつぶつと呟いた。
「まずは涼しいところがいいかな、親戚が多いことは今まで難儀だと思っていたけれど、こういう時に頼れるというのはいいことだな」
ぱちん、と鞄の鍵をかけ、雨之宮は立ち上がった。

あとは、家族に見つからないように家を出るだけである。彼が居ないことはすぐに見つかってしまう事だし、いっそ旅先から絵葉書ぐらいは送るべきかもしれない、と彼は思った。そして文面を想像してみた。
「一筆啓上 自宅療養より健康になりつつあります お元気で」
などと、書いてみたいものだ。

雨之宮は、部屋を見回した。
質素な部屋だ。中身のない、形ばかりの部屋。生き物の気配など――
「ああ」
雨之宮は声をあげた。涼しげな金魚鉢の中で、愛しい赤色が、舞っていた。

「君を連れていくことはできないけれど、毎日愛でられないのも辛いだろう。…かといって、あの家族に終始見られ続けるのも、酷く嫌だろうね、分かるよ」

雨之宮はそう言って、左手に旅行鞄、右手に金魚鉢を抱えた。そして、廊下に出ると、右と左を確認し、足音を立てないようにして、庭から表通りへ出た。

電車での旅行を考えていたが、駅には直行しなかった。
最初に向かったのは、近くの小川であった。
療養の為の散歩道から少し外れた場所にある、穏やかな小道。その傍らの、柳を両脇に添えた、瑞々しい川。
小さな魚の姿もちらほらと見える。

雨之宮は旅行鞄を地面に置いて小川の端に立ち、鉢の中でひらひらと漂う金魚に、静かに別れを告げた。
「仮に飼い慣らされたとしても、目は必要だろうね、今はそう思うよ」

涼やかな水音がした。

そして金魚は、自由の身となった。


雨之宮がその後自分の家へ帰宅することがあったか否かについては、彼の家の庭の蝉だけが知っている。







廻る蝉 そして金魚鉢

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